2016年06月19日

臨床ダイアリー8:怒りのコントロールー2−


2016.06.19:『怒りのコントロールについてー2―』
 皆さんは感情のコントロールをどのようにしていますか。子どものように感情をそのまま表に出すという方法から、感情をしばし心の中に抱え、その感情と向き合いながら言葉にしていくという洗練されたやり方までいろいろだと想像します。「感情をそのまま表に出すのはコントロールの失敗だと思います。感情は出さないように抑えています」という方もいるでしょうね。しかし抑えているだけでは脳にストレスを与えるだけでいつかは爆発するかもしれないですね。
 今回は日々の臨床で問題になる怒りの突出に苦しむ患者さんの話になります。アメリカ精神医学会(APA)が出版した最新版のDSM−5を下に説明しようと思っています。

U.精神科臨床における「怒り」の問題
 日々の臨床で問題になる「怒り」の突出はパーソナリティ障害、間欠性爆発症の二つが代表的です。それを最新の脳科学の知見を加えながら述べていきましょう。
 1.パーソナリティ障害
パーソナリティ障害で「怒り」の突出が問題になるのが反社会性パーソナリティ障害、境界性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害、回避性パーソナリティ障害の4つです。それでは順に説明していきましょう。  
 1)反社会性パーソナリティ障害APD 
 DSM−5によるとAPDの典型的な特徴は「法および倫理にかなった行動に従わないこと、および自己中心的で冷淡な他者への配慮の欠如であり、虚偽性、無責任さ、操作性や無謀さを伴っている」。日本では本疾患の医療機関への受診例は少なく、私の臨床でも治療経験はありません。それでこれくらいでスルーしましょう。
 2)境界性パーソナリティ障害BPD
 「怒り」の突出で本人も周囲の者も困り果てる代表がBPDです(詳細は川谷医院のエッセイを参照してください)。BPDの臨床的特徴は不安定さです。対人関係、自己像、感情が不安定で衝動コントロールの失敗(浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、過食)が特徴です。「怒り」は主に見捨てられ不安に起因します。恋人が約束時間に2,3分遅れた、約束のキャンセルの電話が入った、同棲している彼がいつもより朝早く仕事に出ていこうとした、という事態になるとパニックになり怒りの突出が出現するのです。また、世話を焼いてくれる人が「(傍目にはそうでもないのですが)冷たい、自分を見捨てた」と思う瞬間に相手を罵倒し、嫌味を言い貶し続け、自分の怒りをコントロールできなくなる。そして、そのあとで自己嫌悪に陥り、「自分は駄目な人間」とうつ状態になる。この時に自傷行為が見られることがあります。公式は見捨てられる不安⇒怒りの突出です。
 3)自己愛性パーソナリティ障害NPD
 NPDの特徴は誇大性、賛美されたいという欲求、共感の欠如の三つです。BPDと違ってNPDの「怒り」の突出は見捨てられ不安は小さく、批判や挫折による傷つきやすさに起因します。注目を浴びなかった、無視された、面目を失った、恥かいた、と感じた時にその心理は外には表さないが、代わりに相手を軽蔑したり、激怒したり、憮然として反撃するのです。中小企業のワンマン社長を想像したらよいでしょう。最近では、ベンチャー企業で成功した自己中心的で他人の話を聞こうとしないワンマン社長もNPDと診断されることがあります。NPDの多くが幼少の頃から共感不全の母親に育てられ、自尊心が肥大しているために傷つきやすいのです。中島敦の『山月記』の臆病な自尊心と尊大な羞恥心と呼びたい心性が特徴です。後に説明するAvPDと共通する心性を持っているのですが、NPDでは社会的に引きこもりは少なく社会達成度も高いので鑑別は容易です。
 NPDに見られる「怒り」を精神分析的には「自己愛的憤怒narcissitic rege」といいます。精神分析事典によると「羞恥心が誇大自己の肥大した顕示性に関係するのに対して、怒りは誇大性に対応している。つまり誇大感や全能的な支配欲が受け入れられないときの怒りで、容赦のない破壊的なものである。怒りの対象にされる相手は自分の思い通りに支配できる体の一部のように感じられている自己対象であり、この点で、相手を自分とは異なる独立した人格として体験している成熟した怒りとは区別される」(舘)のです。この他者を自分の一部という心理を自己対象と専門的にはいいます。つまりNPDは相手が自分の求める対象でないと感じた時に怒りが突出するのです。公式は自己愛の傷つき⇒怒りの突出です。
 4)回避性パーソナリティ障害AvPD
 精神科読本シリーズの『ひきこもり青年』と重複する個所があるかもしれませんが、本格的に説明するのは今回が初めてなので他のパーソナリティ障害よりも詳しく説明しましょう(日本サイコセラピー学会雑誌に投稿した2015年の『自己愛・回避性パーソナリティ障害の精神療法』から一部抜粋しています)。
AvPDの典型的な特徴は、DSM-5では「自分が、愚かで無能であると感じること、否定的評価および拒絶への不安にとらわれていること、および嘲笑または恥を怖れることに関連する、社会的状況の回避および対人関係での制止」です。分かりやすく説明しますと、AvPD患者はいろんな対人関係場面で強い不安・緊張を感じやすく、そのために対人関係を避けようとする機制(心のクセ)がパーソナリティに組織化された人たちなのです。
 彼らはなぜ対人関係に不安を持つのか?そしてなぜそれを避けようとするのか?AvPD患者は幼少の頃よりとても内気で恥ずかしがり屋です。この傾向は気質的要因(素因)として考えられ、DSM-5では回避行動は幼少期および小児期から見られるといいます。生活史の中で入園時の集団への適応を見ると、その姿を追うことができるでしょう。この内気さは、成長とともに、特に10歳前後から、その度合いを強めていきます。10歳前後は自己を他者の目を通してみる客観性の能力を獲得する重要な時期であると同時に、心理的に危うい時期でもあります。客観的に自己と他者を比較できるようになるので、この時期の傷つきはトラウマになりやすく、子どもたちに劣等感と恥を植え付けていくことになるからです。何かと人と比べるクセが強い人は劣等感の塊か羨望の虜になるので人生を生き辛くします。そして青年期に「自分は人よりも劣っている」「つまらない奴」「化けの皮が剥がれる」といって人と接することを避け、社会的に孤立し、引きこもり青年へと成長していくのです。
この回避行動を力動的に読み直すと、「幼児的万能感」を巡る防衛と言い換えることができます。外見的には内気で臆病に見えるが、内的にはとても尊大。尊大であるが故に傷つきやすく、あらゆる対人関係場面を避けようとする。この矛盾する心理を作家中島敦は『山月記』で「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」と呼んだのです。AvPDはこの自己矛盾を他者とのあいだで経験・展開しない故の悲劇と言い換えることができます。
 さて、AvPDの怒りについて説明しましょう。一見すると、臆病で内気な人がある日突然、豹変して感情を爆発させるのです。挫折すると感情の大爆発(自己愛的憤怒)が起きる者が少なくとも半数はいます。この感情の大爆発のことはDSM-5では取り上げられてはいません。でも、私の臨床経験では確かな現象なのです。虎になるか怒りを爆発させるかの違いはあるのですが、その背景に「屈辱」という感情があるからなのです。
彼らのパーソナリティの特徴は、パーソナリティ発達に欠かせない対人関係を避けてきているのでパーソナリティ発達が停滞していると言えます。それでは彼らが発達に必要とした対人関係とは何か?屈辱の心理は自分がひとかどの人間ではなかったという現実の傷つきに起因します。なので傷つかないように対人関係を回避するです。すると、同世代の人と競争し、意見を戦わせ、ぶつかり、時には仲直りし、互いに支え・支えられる体験を経験していないということになります。
 ですので、私の臨床では以下のような治療過程を重視するようにしています。治療経過中の感情の爆発は避けがたい。爆発すると、主治医も大変だが、患者やその家族はもっと大変だからです。患者が苦手とする社交の場を回避する術は社会的自己を育てる場と時間を失うというマイナス面もあるが、失敗を重ね、幼児的万能感の爆発を避ける意味においてはプラスの側面があります。よって治療は、回避を保証することから始まります。社会に出て行くことを無理強いされずに保障されている限り患者さんは治療に通います、通い続けることは年齢を重ねるだけで、社会への門を狭め、閉ざしていくことになるという背に腹を変えられないジレンマが患者、家族、そして主治医に襲い掛かってきます。人によっては家族に暴力を振るう人もいます。この矛盾を患者さんが早急に解決しないように、あるいは立ち直れる程度に何度か失敗を繰り返して、抱え・生き続けることを支えることが治療の肝要になるのです。その後に患者さんの内省能力が一気に高まる現象が見られます。そうすると、おっかなびっくりですが、ショートケアや就労支援ドンマイに行ってみようかという第一歩を踏み出せるようになるようです。公式は屈辱⇒怒りの突出です
 2.間欠性爆発症
 DSM−Wから間欠性爆発症Intermittent Explosive Disorderという病名が登場しました。DSM−5では秩序破壊的・衝動制御・素行症のなかに分類されました。何やらおどろおどろしい病名ですね。その「怒り」はあたかも間欠泉のように、何かの拍子に爆発して癇癪や激しい非難や暴言や喧嘩としてオモテに現れるといいます。典型的には爆発の持続時間は30分未満で親密な友人や仲間との間でおきた些細な出来事に反応して起きるようです。些細なというのは「そんなことで怒らんでもいいじゃないか」とあっけにとられるようなことです。私にもちょっとあるかな。反省せねばなりませんね。間欠性爆発症の病因には環境要因と遺伝要因の2つがあって、前者では生れてから20年の間に身体的および情動的トラウマの既往がある人、後者では第一度親族に間欠性爆発症の危険性が高い人がいる、と言われています。
 些細な刺激で衝動的(または怒りに基づく)攻撃性の爆発が特徴で、神経生物学的にはセロトニン作動性異常の存在が支持されています。特に前帯状回や前頭眼窩皮質などで異常が見られると言われています。このことは、癇癪もちの人が脳の病気として診断される時代になったということを意味します。果たしてそれでいいのだろうか?科学を私たちの生活に多大な恩恵を与えてくれました。しかし、原子爆弾と同じように、負の側面ももたらしたのも事実です。癇癪もちを病気扱いするのではなく、かつ異常性格者と片付けるのでもなく、一人の人間として抱えていく社会が必要な気がします。
 3.脳科学の貢献
 古来、日本人は感情を表に出すことを厭わない民族でした。漢字学者の白川静によると、感情とは物事に感じて起こる心のはたらきをいうようです。神が民の祈りに「心が動く」ことを感といい、それですべて他に感じて「こころうごく」ことを感、また心に感じること、「おもう」ことを感というようになったようです。この心理的な表現を脳科学ではどう言い表すのでしょうか。
 感情的・衝動的な行動を抑制するのは眼窩前頭部前頭全野(OF)の部位が担当してします。この部位に何かの原因で損傷を被るとエッチで間欠性爆発症みたいな人になります。前部帯状回(AC)という脳の部位は感情の制御、社会的な行動(母性)、注意、現実原則を受け持っています。扁桃体と眼窩前頭部前頭前野(OF)の関係を見ると、OFの外傷は粗暴で衝動的な行動に走りやすいと説明したように、BPDの病因説と考えられています。幼少期にこの部位に故障が起きると、つまり子育て中に虐待などを受け続けると、この脳の部位に過剰の興奮が続き機能不全に陥りBPDの病因になるという説です。慢性的な心理的・身体的虐待はOFと扁桃体との間に太いパイプを形成できることが不可能になり、臨界期3才までに「社会的な脳」を育てることに失敗するということまで解き明かされました。これがパーソナリティ形成の環境因を脳神経学的に捉えなおした説明です。
 一方、犯罪者における「攻撃性」を扱う犯罪精神医学では人間の持つ「怒り」をどのように考えているのでしょうか。この分野の第一人者の福島(1998)は殺人を犯した被告人57例のMRIとCTを調べてみたところ、以下のような違いが見られたと報告しています。
  1.半数以上に微細な器質的異常
  2.二人以上の大量殺人者→92%に異常
  3.殺人者以外の場合の異常は5%。正常者で1%以下
 A・レイン(1997)は殺人者の脳PETを調べ、以下のように報告しています。
  前頭葉機能の低下
  左の扁桃体、視床、正中葉の機能低下
 人間の心を理解するための脳科学の貢献は大きな成果をもたらしました。しかし科学には負の側面が付きものです。正と負の影響をバランスよく保っていないと、人間の心と行動を何もかも脳のせいにしてしまうと、人間の本質を見逃してしまう危険性があります。最近の発達障害という病名にもその弊害が起きています。人間の諸問題を発達障害という病名の責任にして、「あいつは発達障害やけん」と差別感情むき出しにするのは避けたいものです。心の問題を扱う精神科医や心療内科医にこそ、時間をかけ人間の心と行動に関心を持ち続け、探求していく長い道のりを厭わないという情熱を持ち続けることを期待したいものです。精神分析的な人間の理解は答えを見つけるまでに長い道のりをかけようとします。単純に「病名」でけりをつけようとはしない学問です。だからこそ私は精神分析を日々の臨床の基礎としているのです。
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2016年06月13日

臨床ダイアリー7 怒りのコントロールについて

臨床ダイアリー7

2016.06.12:『怒りのコントロールについて』

T.はじめに
 前回から3週間が経ちました。6月上旬の日本精神神経学会の準備のために時間のゆとりがなかったからです、と言い訳をしながら、今回のタイトルは最近よく相談される「感情のコントロールについて」です。その中で臨床的に問題になるのは「怒り」の感情が圧倒的に多いので、タイトルを「怒りのコントロール」と題しました。
 詩人で劇作家の寺山修司は怒りについて戯曲『さらば、映画よ』の中で次のように述べています。「たまには怒ったら、どうですか?怒ると、人間らしくなる。少なくとも怒れるってことは植物じゃできないことだからね」と怒りを人間に備わる真っ当な感情として取り上げました。怒られる方の迷惑については論じてないのですが、『家出のすすめ』にもこんな個所があります。「怒りというのは排泄物のようなもので、一定量おなかのなかにたまるとどうしても吐き出さざるを得なくなる」と生物体として生きる限り当然起きる感情とまで言っているのです。
 そう言えば、野球漫画『巨人の星』で飛雄馬の父親は怒ると卓袱台をひっくり返していましたね。テレビの『寺内貫太郎一家』では何か気に入らないことがあるとすぐに卓袱台をひっくり返す貫太郎のシーンは番組の定番でした。昭和の父親というと気が難しくて短気で頑固でした。外ではどうだったか知りませんが、家ではよく切れていました。昔の日本人、特に父親はよく怒っていました。
 私が小学校6年生に上がるときに担任がS先生と知って嫌だった思い出があります。S先生は切れると暴力を振るうことで有名だったからです。中学ではもっとひどかった。ある朝、担任Kが教室に入るなり「男子は立て」と言って、持参した青竹で男子の坊主頭をゴン、ゴン叩いていくのですから、たまったものではなかった。なぜ担任が腹を立てていたのか理由は言いません。プライベートで嫌なことがあってその憂さ晴らしに坊主頭を叩いていたのでしょう。今だったら大問題ですね。校長、教頭、担任が揃って頭を下げるシーンがテレビで放映されるでしょう。
 それから50年後、日本人は怒りを問題視するようになりました。「父親」の力が攻撃性の抑止力になっていたのが、第二次世界大戦後「父親」の力が弱くなった途端に様々な問題が噴出してきたのでしょう。最初に社会問題として現れたのが1970年代後半です。思春期の子どもが家族に振るう「家庭内暴力」です。そして境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害が怒りの制御が上手くいかない人たちとして登場しました。1990年代に入ると、ドメスティック・バイオレンス(DV)、教師を脅すモンスターペアレント、交際相手の執拗なストーカー行為、ヘイトスピーチ、などなど攻撃性が社会問題化してきたのです。海外に目を移すとテロ行為です。テロに対しては特殊部隊だけでは抑止できないことはわかりきったことです。平和を維持するのには攻撃性を抑える社会構造が必要なんですね。この社会構造を構築するのが21世紀の人類に与えられた課題なんでしょうか。生きていくのが難しくなってきました。
 寺山修司は「怒ってもいいんだよ」「怒るって人間である証拠なのよ」と攻撃性を弁護していたのに21世紀は力で抑え込まなければならない事態になり果ててしまっているのです。それは社会構造の変化とともに攻撃性の抑止力が弱体化してきたということを物語っているのでしょう。それと同時に、社会から個人にズームアップすると、あなたと私の関係でも「怒り」の問題に悩む人たちが増えてきて、怒りの制御が上手くできないと人間社会で生きていけないという事態まで起きているのです。本エッセイでは1対1という対人関係で問題になっている「怒りの上手なコントロールの仕方」について述べようと思います。
 以下の予定
臨床ダイアリー8
 精神科臨床における怒りの問題
  1.パーソナリティ障害
  2.間欠性爆発症
  3.怒りの脳科学の貢献
臨床ダイアリー9
 攻撃性の精神分析
  1.フロイトの理解
  2.フロイト以後の理解
  3.ウィニコット・ビオンの貢献
臨床ダイアリー10
 怒りのコントロールの仕方
posted by Dr川谷 at 10:54| Comment(0) | 臨床ダイアリー

2016年05月23日

臨床ダイアリー6:「泣くのは私が弱いからですか」

臨床ダイアリー6
2016.05.22(日曜日)『泣くのは私が弱いからですか?』
T.はじめに
 川谷医院に通院している患者さんたちにこの臨床ダイアリーを読んで貰いました。多くの方から「内容が難しい」「長すぎて一気に読み終えない」という感想をいただきました。それで今回は、原稿用紙10枚以内で終わるショート・エッセイにしました。タイトルは、ある患者さんから診察時に『泣くのは私が弱いからですか?』と質問された経験が元ネタになっています。
 この問いは、現代人にとってとても大切なものを含んでいるように思います。というのは、泣くという行為を「良い」か「悪い」に二分する思考過程からは何も生まれないからです。つまり、「泣く」=弱いと単純に割り切ろうとする現代人の考え方に重要な問題があるような気がします。泣く=こころが弱いという思考過程は、患者さんと彼/彼女を取り巻く人たちの両方にとって不幸なのです。何故なら、二人の間には何も生まれないからです。
 もし泣いている患者さんの話を聞いて、あるいは泣くという行為から彼/彼女の心を想像して貰い泣きしたとします。すると、そこには心の交流が発生します。二分法では決して起きない、何かが生まれる可能性空間が生成された瞬間です。だから問題にしたいのです。
U.オペラ『蝶々夫人』を観て
 今日の午後はプッチーニ作曲『蝶々夫人』を鑑賞しました。1986年にミラノ・スカラ座で上演された演出:浅利慶太、衣装:森英恵、照明:吉井澄夫という豪華版のDVDです。演出もよし、衣装もよし、そして照明が素晴らしい。私の中ではこれまで見た『蝶々夫人』のベスト1位です。蝶々夫人を外国人ではなく林康子さんが演じたのも違和感がなくてよかった。贅沢を言うなら、スズキを演じた田中路子に蝶々夫人を演じさせたかったですね。
 このオペラを観ているときに「泣くのは私が弱いからですか」と問われたことを思い出したのです。DVDでは涙することはなかったのですが、それに近いようなカタルシス効果を覚えました。オペラの劇中では泣くことは美しいシーンの一つです。劇場ですすり泣きしている人を見て、感動できる感受性を恨めしく思うことはあっても否定することはない。男性であれば「涙腺が緩んだ」と言い訳することはあるでしょうが、決して「悪い」と批判するひとはいない。
 患者さんの質問は『オペラ』に感動して泣いているのではない、と突っ込みたくなるでしょうが、今しばらく「泣く」ことについて時間を割かせてください。泣いている子どもを揶揄することはあります。でも決して「泣くな」と怒ったりはしませんね。子どもは泣く存在だからです。子どもの頃、私の姪は兄の甥と喧嘩すると、気の弱い兄に向って「泣け」と言って甥を泣かしていました。この場合の「泣く」は喧嘩に負けたことを意味します。いろんな「泣く」があります。
 1.『日常臨床語辞典』のなかの「泣かれる」
 須賀先生によると人が「泣く」には三つの誘因があります。痛みや衝撃といった身体的な誘因、悲しみや怒りといった感情的な誘因、そして感動や敬虔さといった精神的な誘因の三つです。この三つの誘因に、「内的な降伏」という特有な契機が重なって「泣く」という行為が生れるという。そして文化論に移り、「成人した男性がなくことは、むしろ『女々しい』こととされる」と続きます。
 男性が泣くのは女々しいとよく言います。ところが、『源氏物語』を読んでみてください。成人した男性がよく泣くんですよ。源氏物語の一巻「桐壺」から泣くシーンが出てきます。それを林望謹訳『源氏物語』の桐壺の巻から引用します。
 最愛の更衣との別れのシーンで、帝は「あれやこれやと泣きながら約束などなさろうとするけれど・・・・」とあります。次いで、若君(後の光源氏)を里に出す際にも「父帝も絶えず涙を流しておられる・・・・」と昔の日本人男性は女々しいのが普通だったのです。すぐに袖を涙で濡らします。歌舞伎を観ても、文楽を観ても、劇中の日本人はよく泣く。「泣き虫なまいき石川啄木」とも言います。石川啄木は明治の人です。まだこの頃までは日本人は泣いています。
 2.日本人は明治から泣かなくなった
 2011年3月の大震災で「なぜ日本人は泣かないんだ」という韓国人による疑問がネットを中心に話題を呼びました。ホントに日本人は泣かなくなった。何時頃からでしょうか。確か、柳田國男がこの疑問に答えています。手元に資料がないので、古い記憶を頼りに書きますが、日本人が泣かなくなったのは明治に始まった学校教育の方針によるものだったようです。明治になって欧州を手本にして騎士精神を輸入したときに始まるそうです。
 明治の学校教育によって「泣く」ことはいけないことという考え方が吹き込まれ、もともと辛抱強い日本人ですから、泣かない日本人が生れたというのが柳田國男の説です。これは本当かもしれないですね。幼い頃から、泣くな、メソメソするなと叱られつづけるわけですから、ちょっとやそっとでは泣かない子どもに成長します。でも、明治の頃は、大人はまだ泣いていました。夏目漱石が留学したロンドンで毎日泣いて暮らしているのを不憫に思ってか、下宿屋の女将さんは漱石に自転車をあげて、外に出したというエピソードがあります。大人になってメソメソ泣く日本人を見てイギリス夫人もさぞびっくりしたでしょうね。日本だったら普通のことだったのでしょうけど。
 落語、浪花節、浄瑠璃などの演芸ものでは作中の日本人は泣くのが普通で、それを楽しむ日本人も泣いて鼻水を垂らしていたのです。それが普通のことだったのです。しかし、日露戦争に勝ち、第二次世界大戦へと驀進し続けるころには泣かない日本人が形成されていったのです。大泣きしない、メソメソしないしない日本人が登場するようになったのです。
V.「泣くのは私が弱いからですか」について
 さて、本題に入る準備が整いました。昔の日本人は泣くことをいけないこととは考えなかった。むしろ泣くことでストレスを発散し、貰い泣きする周囲と一体感を得ていたのです。それが、明治に入って否定されて、21世紀の日本人にとって「泣く」ことは否定されるようになったのです。幼子がバスや飛行機の中で「泣く」と、それを迷惑がる大人が出てくるようになったのも泣くことを否定する現象の一つです。昔だったら泣く子を包み込む大らかな雰囲気があったのですから。東京都知事の舛添さんみたいな小さい、セコイ大人が増えたのです。
 私に質問をくれた患者さんは人生のあちこちで普通に生きていけない生き辛さを抱えています。アルバイトでうまく立ち振る舞えなくて、泣くのを我慢しながら帰ったのです。そして家に着いて感情があふれ出して泣きだしたのです。それを母親に咎められ、「泣くのは私が弱いからですか」という問いへとなったのだと想像します。人生に失敗して、泣いたことを咎められ、これでは泣きっ面に蜂です。
 「泣く」ことを否定する文化で育った現代の日本人には鬱積する感情を発散する術はありません。泣いてもいいんですよ、と気持ちを汲んでも、泣くことを否定されている現代人にとっては意味が通用しません。お母さんの応対が悪いと否定しているように受け取られ、ますます患者さんは苦しくなるだけだからです。ここは、泣くか泣かぬか、弱いか強いか、という二分する思考過程を何とかしないといけない。この間(あいだ)に楔を打ち込まねばならないのです。
 その時に感じていた思いや感情はどんなものだったのでしょう。その思いや感情を言葉にしないでいるとどうなるのでしょうか。ストレス状態が続くと病気になります。心身症を病んでいる人に特徴的なのはアレキシチミアAlexithymiaという状態です。心のなかに起きている感情を言葉にできない状態のことです。その感情は出口を塞がれて脳の視床下部というところで渦巻いて、終には、自律神経失調症やうつ病を発生させるのです。
 ですので、この渦巻く感情や思いを言葉にすることが大切になるのです。そして「泣くのは私が弱いからですか」という問いに、否定も肯定もしないことが重要なのです。二分法にたいして直接的に介入すると、つまり良いか悪いかと反応することは二分法を強化するだけだからです。「泣く」ことは弱いことではないと対応すると、いいえ母親は弱いと言います。母親の意見は絶対です。逆に、「泣くのは強い」と言えない。「泣く」ことを否定された現代人にとって「泣くことは強い」ということは嘘ごとになるので、口が裂けても言えない。口出しするとそんなことはないと否定され、口出ししないとますます「泣く私は弱い」となるので、いずれにしても二分法を脱することは不可能なのです。
 その時に二分法の思考に楔を打つことが求められます。これをウィニコットは可能性空間の生成と呼びました。私流に申しますと、心の中に鬱積し、脳の視床下部で渦巻いている感情を開放する場をつくるのです。それはどうやってするのか知りたいですね。「泣くのは私が弱いからですか」という問いに直接答えることを控えて、先ずは沈黙の場を作るのです。この間(マ)が感情の復活に必要なのです。間ができたら、どんな思いをしているのかを聞き出すようにします。物語る前に感情を取り上げるのです。その次に、物語を語らせると、もはや感情は鬱積することなく解放されるのです。私に質問してくれた患者さんのお母さんに「辛かったね」という一言が生まれていたら、患者さんはきっと救われたと思います。
 W.さいごに
 如何でしたでしょうか。今日は「泣く」ことを否定された現代人の不幸について考えてきました。そこにはAlexithymiaという心身症の病因となる状態を作り出す思考過程が潜んでいます。それを私は二分法と記してきました。別の言い方をすると、スプリッティングsplittingとも呼びます。このスプリッティングについては何れ紹介したいと思っています。
 感情を抑えると碌なことは起きません。しかし、それをそのまま「泣く」という行為で発散することも現代の日本人にとってはできないので、感情は鬱積し病気をつくる原因となるのです。そこから回復する道について述べてきました。できれば、皆さんが子どもを授かって子育てするときに参考にしていただけるととても嬉しいし、子育てが終わった人たちにとっては病気にならないように感情を大切にする気持ちを育ててもらいたいと願っています。
 感情はおさえるのではなくて表現するものです。つまり、表(オモテ)に出すことなのです。赤ん坊であれば「泣く」ことだし、子どもにとっては泣きながら喋ることになります。大人であればどんな感情や思いを体験しているのかを探る過程が大切になります。

参考文献
1.北山修監修・妙木浩之編『日常臨床語辞典』.誠信書房、2006.
posted by Dr川谷 at 09:28| Comment(0) | 臨床ダイアリー