2017.04.10.(月曜日)
臨床ダイアリー16:『自己愛について』
T.はじめに
精神医学はこころという眼に見えない領域を扱う学問なので、こころの中で起きている現象を日常語で描写するのは難しいことだと思います。しかも、日本の精神医学はドイツ、フランス、アメリカから輸入した学問なので、先人たちの訳した専門語がしっくりいかないこともしばしば経験されます。societyやpersonailtyを翻訳するのが難しかったようにnarccismも日本語に訳するのに苦心したと思います。原語の意味に相当する日本語がない場合、新たに和製漢語を作りださなければなりません。すると今度は、その訳語が独り歩きして本来の意味からかけ離れてしまうことがあるので、和訳するのには相当苦労したと思います。仕方なくカタカナで言い表すこともありますが、それだとカタカナ語だらけになってしまいます。
今回は、ナルシシズムについて語ろうと思います。ナルシシズムとは英語のnarccismをカタカナで表記したもので、日本では「自己愛」と訳されています。なかなかセンスのある訳語だと思います。自己愛を英語に言い換えるとself loveになるのでしょうか。では、最初にナルシシズムの語源からはじめて、「自己愛」の問題に移りましょう。
U.ナルシシズム(自己愛)について
ナルシシズムは周知のようにギリシア神話のナルキッソスの話が出典になっています。その話から始めましょう。
1.『ギリシア神話』のナルキッソス
眉目麗しいナルキッソスは女性の憧れの若者でした。ニンフのエコーもそのうちの一人で、恋する彼女は彼に愛の告白をします。ナルキッソスはエコーには見向きもせず、冷酷に扱ったために、復讐を司るネメシスの神から「人を愛そうとしない者は、自分自身を愛するがいい」と呪われてしまいます。そのためにナルキッソスは水面に映った自分の姿に引きつけられて「人を愛することがどんなに苦しいことか。死だけが僕の苦しみをしずめてくれる」と言って死んでいくのです。
この物語には愛の対象に自分を選択することは悪だというメッセージが込められています。なぜ自分を愛することは悪なのか。その理由は、なぜ人間は死ぬのか、という問いの中に隠されています。アメーバや大腸菌のような単細胞生物は生き延びるために自分のコピーを増殖させる作戦をとります。適した環境の下では単細胞生物は生き続けます。しかし単細胞生物の弱点は環境の変化に弱いところです。その欠点を克服するために、人間のような多細胞生物は環境の変化に適応できるように新しい細胞を次々に生み出しました。その方法とは、個体をオスとメスに分けて、つまり父親由来の遺伝子と母親由来の遺伝子をシャッフルさせることによって環境の変化に対応しようとしたのです。そして使命を果たした細胞は死ぬように運命づけられたのです。よって、遺伝子をシャッフルさせないことは悪なのです。
※自分を愛することは社会悪であり罰として「死」が与えられます
2.フロイトのナルシシズム
ナルシシズムという言葉を心理学の世界に導入したのはフロイトです。フロイトは、『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』(1910)の中で同性愛患者の対象選択を説明するにあたってナルシシズムという用語を用いました。フロイトは言います。「同性愛者は自分自身を性の対象とする。彼らはナルシシズムから出発して、母親が自分を愛してくれたように自分が愛することのできる自分に似た若者を求める」と。
次いで、『ナルシシズム入門』(1914)では、エネルギー経済論の見地から、自我リビドー(自分への関心)と対象リビドー(他者への関心)を区別し、ナルシシズムとは自我リビドーが増加した状態であるといい、(つまり自分のことばかりを考えている状態のことです)、統合失調症は外界の対象からの対象リビドーの撤収と自我への備給という理解を示しました。すなわち、統合失調症では外界の対象への関心が無くなり自分の殻の中に閉じこもっている状態、だと説明したのです。そして「理想自我とは、乳幼児的な自己愛selbstliebeの存続である」と述べました。自分を愛することは健康な成人にはあってはならないことだと言っているのです。ここでフロイトは、ナルシシズムとは「乳幼児的な自己愛」だと定義したのです。
さらにフロイトは、こころの発達モデル(成熟過程)を提供しました。乳幼児ではもっぱら自分の身体に関心が向き(自体愛)、成長とともに自分への関心(ナルシシズム)へとエネルギーは流れ、最終ゴールとして心のエネルギーは他者に向けられる対象愛へと成熟するというのです。すなわち、自分に関心が向けられるナルシシズム段階にとどまるのは病的だと考えたのです。
※フロイトはナルシシズム(自己愛)を病的状態と考える
3.E・フロムのナルシシズムについて
自分以外の他人を好きになるのがこころの成熟だというフロイトの説明は、ヨーロッパに住む人たちに広く共有される考えです。このフロイトの考えに真っ向から反論したのは新フロイト派のE・フロムです。
フロイトの思想の根底には「利己心と自愛(self-love)とは同じもの。他人を愛するのは徳であり、自己を愛するのは罪であり、さらに他人にたいする愛と自己にたいする愛とはたがいに相容れない」という仮定が存在するとフロムは看破したのです。フロムは「利己主義と自愛は同一ものではない。愛はある『対象』を肯定しようとする情熱的な欲求(憎悪は破壊を求めるはげしい欲望である)」と言って、「私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象である」と自己愛を肯定するのです。フロムの考えを分かりやすく言うと、利己主義は貪欲の一つだし、根本的には自分自身を好んでおらず、深い自己嫌悪をもっている。つまり、自愛の欠如に根ざしている、と主張しているのです。さらにフロムは「ナルシス的人間は他人をも自分をも愛していない。 彼らのナルシシズムは−利己主義と同じように−自愛が根本的に欠けていることを、無理に償おうとする結果である」と主張します。
フロムはナルシシズムと自己愛(self love)を区別して考えています。自分を愛するという自己愛自体は悪くはない、ナルシシズムのなかにある利己心が破壊的なのだというのです。ナルシシズムと自己愛は別物とフロムは考えているのですね。
※フロム曰く、「私自身も愛の対象である」
4.アジアの人たちの考え方
フロムは「私自身も愛の対象である」とフロイトに反発しましたが、ナルシシズムには利己主義的な一面があるので肯定できないとも言っています。一方、アジア人はどう考えたのでしょうか。そのために釈迦の話を引用します。中村元著『原始仏教 その思想と生活』(NHKブックス)のなかで、原始仏教では「自己を愛する」ことを次のように教えています。
或るときパセーナディ王はマツリカー妃に尋ねた。『マツリカーよ。お前にとって自分よりももっと愛しいものが何かあるかね』。『大王さまよ。わたしにとっては自分よりももっと愛しいものは何もありません』。妃はさらに反問した。『大王さまよ。あなたにとっても自分よりももっと愛しいものがありますか』『わたしにとっても、自分よりももっと愛しいものは何も無い』と。がっかりした王は釈尊のもとへ赴いた。話を聞いた釈尊は次の詩句を唱えた。『思いによっていかなる方向におもむいても、自分よりもさらに愛しいものに達することはない。そのように他の人々にとっても自分がとても愛しい。それ故に自己を愛する人は他人を傷つけるなかれ』
「それ故に自己を愛する人は他人を傷つけるなかれ」という釈迦のダメ押しは重要ですね。ここで釈迦は、自分を愛することは自然な行為だが、ともすれば利己主義に傾きやすい危険性がある、と言っているのです。言い方を変えると、人間が利己的なものであるという厳しい現実を認めることによって、同情も愛も成立する、と言っているのです。『自己を護る人は他の自己をも護る。それ故に自己を護れかし。しからばかれは常に損ぜられることはなく、賢者なのであろう』と。
このような理想的な自己を実現するためには、もろもろの悪徳・煩悩の基づくよりどころとしての自己を滅却せねばならないのです。二つの自己とは、自己を愛し護ること(大我)と自己を滅しすてること(小我)、だと釈迦は教えているのです。
※釈迦は、自己愛は自然な行為だが危険と隣り合わせ、と教えた
5.日本ではどうか
さて、日本では自分を愛することは許されるのでしょうか。夏目漱石の『それから』(1909)から引用します。
彼は歯並の好いのを常に嬉しく思っている。肌を脱いで奇麗に胸と背を摩擦した。彼の皮膚には濃やかな一種の光沢がある。香油を塗り込んだあとを、よく拭き取ったように、肩を揺かしたり、胸を上げたりする度に、局所の脂肪が薄く漲って見える。彼はそれにも満足である。次に黒い髪を分けた。油を塗けないでも面白い程自由になる。髭も髪同様に細くかつ初々しく、口の上を品よく蔽うている。代助はそのふっくらした頬を、両手で両三度撫でながら、鏡の前にわが顔を映していた。・・・御白粉さえ付けかねる程に、肉体に誇を置く人である。・・・それ程彼は旧時代の日本を乗り越えている。
主人公の代助は親の脛をかじる「高等遊民」です。漱石は鏡の前で自分にうっとりする主人公を見事に描いています。小説ではこの後、学生の頃好きだった三千代との不倫関係へと移ります。つまり自己愛から対象愛へと進むのですが、代助は学生の頃、三千代に好意を抱いていたのに恋に陥るのを避けて、友人に彼女を譲るという過去をもっています。代助は人を愛することに葛藤的だった漱石の分身でもあります。というのは、漱石にとって人を愛することは罪なことだったからです。それを小説という架空の世界のなかで自身の問題を解決していくのです。漱石は学生時代に通っていた眼科の待合室である女性に恋心を抱いて妄想の世界に没入していくのですが、それを小説の中で生き直していくのですね。
話が脱線しそうなので、元に戻します。自分にうっとりする姿を「それ程彼は旧時代の日本を乗り越えている」ことだとありえない話として解釈していますが、自己陶酔する代助の姿を否定しているわけではありません。小説が書かれたのは日本が日露戦争へと突き進んでいった危険な時代です。代助は働かないことによってロシアに勝利して浮かれる国民を非難すると同時に自己陶酔する日本人をも描いてもいるのです。
漱石は日本人の自己陶酔しがちな側面を見抜いていました。日本で始まったカラオケやコスプレ文化は瞬く間に世界に広がっています。どうやら、江戸時代を眺めても明らかなように、文化や芸術が開花するのは、海外との交流を最小限にすることで、つまり外界の対象への関心を狭め自身への関心を高めるときに結晶化される、という特徴を日本文化は持っていると言えます。ですので、日本は自己愛を肯定する文化だと思うのです。ガラケーも“可愛い”文化もそうだと思いませんか。
※日本文化は自己愛の中で高められる
V.精神分析における自己愛について
自分を愛することは社会的悪という西欧の人たちの考え方に対して、フロムは、自己愛は決して悪ではない。ナルシシズムの中にある利己主義が悪いのだ、と主張して、ナルシシズムと自己愛を区別しました。一方、アジアでは自己を大我と小我の二つに分けて、自己愛に潜む矛盾を明らかにしてきました。日本では心のエネルギーが内向きの時に独自の文化・芸術・工芸が開花するように、自己愛を肯定する文化だと思います。
要約しますと、自己愛は否定されるべき/受け入れるべき、という考え方には、以下の二つの態度があると言えます。
1)西欧文化
自分を愛することは社会悪であり、人間的に未熟な証拠だと否定した。
2)日本を含めたアジア
自分を愛することは自然なことなのだと肯定する一方で利己主義に傾く危険性もはらんでいるので利己心を滅すべき。
フロムのようにナルシシズムと自己愛を区別して考えるよりも、ナルシシズムを自己愛と訳して、自己愛には正と負の二つの要素がある、と考える方が私には馴染みやすいですね。それでは、フロイトから始まった精神分析ではナルシシズムをどのように考えてきたのでしょうか。
自己愛の理論を発展させたのはコフートKohutという精神分析家です。和田秀樹先生の『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析 コフート心理学入門』(2002)を参考に説明しましょう。コフートは著書『自己の分析』(1971)の中で、フロイトの「自体愛→自己愛→対象愛」という発達ラインとは別個に、「自体愛→自己愛→より高度な自己愛」という発達ラインを提唱しました。そしてその中で「治療者の側で、患者の自己愛態勢を対象愛に置き換えたいという願望をもちやすいのは、西欧文明の愛他主義的な価値体系の誤った押しつけによるものであって、発達上の成熟度や適応上の有用性を客観的に考慮したことによるものではない」と述べたのです。この辺りはフロムの考えと同じです。
次に、コフートは『自己の修復』(1977)を出版し、その中で「愛の対象が同時に自己対象でないような成熟した愛は存在しない、ということに私は躊躇しない」と述べて、自己愛的でない対象愛は存在しない、と主張したのです。コフートのいう自己対象とは「自己の一部として体験される対象」のことです。自己愛的な人は、他人は自分の手足の一部のように動くものという錯覚の中で生きていますので、そうでないときに怒りが突出するのです。
そして集大成となった『自己の治癒』(1984)の中でコフートは蒼古的な自己‐自己対象関係から成熟したものへというアイデアを提出するのです。「心理領域での依存(共生)から独立(自律)へと向かう動きは、生物的領域でのそれと対応的な、酸素に依存した生活から酸素に依存しない生活へと向かう動きと同様、望ましいというのはおろか可能ですらない。われわれの見解では、正常な心理生活を特徴づける発達は自己が自己対象を放棄するのではなく、自己と自己対象の関係の質の変化のなかに存在しなければならない」と述べたのです。人間にとって自己愛は酸素のようなもので生きていくのに欠かせない、と言っているのです。
コフートは最終的に「わたし」という主観的体験を重視するようになります。このコフート理論は後には「自己感 sense of self」の発達から間主観性理論へと発展していきます。
ところで、皆さんはもうお気づきだと思いますが、コフートの「人間にとって自己愛は否定されるべきものではない」という主張は理解されたと思いますが、自己愛の負の側面への言及がありませんね。私たちは、自分を愛することは「自分だけ!」という利己的な態度に陥りやすい、と釈迦から教わったばかりです。コフートの考えの対極にあるのがカーンバーグKernbergという精神分析家の考えです。コフートが自己愛の正の部分を強調するのに対してカーンバーグは負の部分に力点を置きます。その討論はXの治療論で説明しましょう。
W.DSM−5の自己愛性パーソナリティ障碍
精神科臨床ではその負の側面が現れる現象だと思います。アメリカ精神医学のDSMの自己愛性パーソナリティ障碍(以下、NPD)を見てみましょう。
定義:
NPDは、自分は優れた人間であって、他人は自分を称賛するために存在する、と考えている人たちのことです。他人の心の痛みが分からないし、周囲から注目されないと傷つき、怒りで反応します。人生の成功者にしばしば見られるのが誇大型。それとは逆に、誇大性を裏に隠し臆病で劣等感の強い、周囲の反応に過敏になっているのが敏感型です。前者を「皮の厚い」型、後者を「皮の薄い」型とも言います。
NPDの診断基準:
誇大性(空想または行動における)、称賛されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。
1)自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
2)限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3)自分が“特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人たち(または団体)だけが理解しうる、または関係があるべきだ、と信じている。
4)過剰な賛美を求める。
5)特権意識(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)
6)対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)
7)共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づかない。
8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9)尊大で傲慢な行動、または態度
どうでしょう。何度も繰り返しますが、自己愛には正と負の両面があります。その負の側面のみをクローズアップするだけでは自己愛は悪だという西欧文化の考え方になるのではないでしょうか。「俺が、俺が」から「俺も俺だがお前もお前」への移行を臨床医が求めるのはコフートが指摘したように「西欧文明の愛他主義的な価値体系の誤った押しつけによるもの」になるのではないでしょうか。それよりも「俺が、俺が」という人物は社会的成功者、特に一代で築いた中小企業の社長さんに多いわけで、周りにいる人は毒気に当たって辛い思いもするけれども、自己対象が機能すると才能豊かな人たちでもあるのです。また、この診断基準からどんな治療戦略が生れるというのでしょうか。そろそろNPDは臨床診断から除外すべきだと思います。次回は、この問題を掘り下げて、私の負の自己愛に関する治療について述べようと思います。
※私はNPDの臨床診断は除外すべきだと思う