2017年11月27日

臨床ダイアリー17『完全主義の落とし穴』

T.はじめに

今回のテーマは「完全主義Perfectionism」です。完璧主義とも言います。臨床ダイアリー16「自己愛について」を4月10日にホームページにアップしてからスランプが続いていました。さぼっていたのではありません。この間、自己愛についてA、醜形恐怖症、根拠のない自信、フロイトの神経症論の復活、など書いてはみたものの、いずれも納得いかなくて未完成に終わっていたのです。そうこうするうちに夏になり、秋がやってきて、あっという間に11月です。あと5日で12月です。

あれこれ書いては頓挫して、気を取り直して別の主題に移ることを何度も繰り返している内に機が熟したのか、「完全主義」について書いてみようと思いました。「完全主義」については自著『自傷とパーソナリティ障碍』でも一章を設け、私にとって関心の高いテーマなのですが、あれから8年が経ち、これなら世に出せそうだというモノが固まってきました。それを本小論では書こうと思います。

U.完全主義について

長年、境界性パーソナリティ障碍(以下、BPD)の治療に当たって思うことは、BPDと診断される人たちのなかに病前性格が完全主義という人が少なくない、ということです。そして完全主義にはナルシシズム(自己愛)が絡んでいるので、扱いがとても難しい。「完全主義を変えたい」という理由でクリニックを訪れる完全主義者もいますが、性格に変化を与えることは難しいと言われてきました。今日では「性格を変える」という考え方自体がそもそも間違っていると考えるようになりました。変えるのではなく、客観的に捉え、性格に振り回されないようになる、という方が正確でしょう。

完全主義とは、大辞林によると「物事を行うに際して、完全に行わないと納得できない性向」と簡潔に説明されています。Wikipediaでは「完全主義とは心理学においては、万全を期すために努力し、過度に高い目標基準を設定し、自分に厳しい自己評価を課し、他人からの評価を気にする性格を特徴とする人のこと。定められた時間、限られた時間の内にて完璧な状態を目指す考え方や、精神状態のことである。このような思想を持ったものや、そのような心理状態の者を完全主義者、もしくは完璧主義者と呼ぶ」とあります。完全主義には正の作用と負の作用があります。良い仕事は完全主義でないとできないし、JRの電車も時間通りには運航できないでしょう。負の作用がここで取り上げる「落とし穴」のことです。行き過ぎた完全主義の治療についてはWikipediaでは認知療法を挙げていますが、日本では歴史的に精神分析療法や森田療法が成果を上げています。

完全主義は精神科臨床ではBPD以外にも思春期やせ症、強迫症、うつ病、強迫症などの患者さんに見られます。この完全主義をもつBPD患者の治療は、完全主義の扱い方に大きく左右されるのです。完全主義を上手くいくと短期間でかつ劇的な寛解に至ることができるし、その対応が拙いとボーダーライン状態は延々と続き、本人にのみならず周りも疲労困憊に陥る危険性があります。

また完全主義はナルチシスティックな人や強迫的な人に見られますが、前者が自分に甘く他人に厳しいのに対して、強迫者のそれは自己批判的で周りの人たちへの関心は少ない。ナルチシスティックな人たちは「自分は完璧主義だ」という思い込みが強いのが特徴です。

本小論ではこの完全主義について患者さんから教わったことを書いてみようかと思います。

U.完全主義者の落とし穴

 私が最初に完全主義者に出会ったのは研修医1年目の思春期やせ症の患者さんでした。次に、福岡大学病院に内地留学して受け持った過食症を合併したBPDの青年です。3例目はクリニックで担当した外出恐怖症の女性です。運よく3人とも病気は改善したのですが、完全主義の治療が完璧にできたかと問われると自信がありません。でも、3人の治療経験は私の大きな財産になりました。開業してから完全主義者のBPDやうつ病を治療する機会に3人の治療経験がとても頼りになったのです。

1.3人の治療経験から得られたもの

 最初に指摘しておきたいことは、完全主義は病気を治すのに抵抗勢力になるということです。なぜ治療の抵抗になるのか。その理由を病気の成り立ちから考えてみましょう。メンタルの病気は様々な内的不安を防衛するために種々の症状が生まれ、それを強固なものにするために完全主義が縄を編むように絡み合って複雑な病態を形成しているからです。故に、病気の成り立ちを理解しようというのではなく、完全主義が治療の目的になり変わり、症状を消失させようということにのみ意識が集中して完全な治癒像を求めてしまうからです。

 思春期やせ症の中学生は自らに課した過酷な食事制限とエクササイズを守ったために体重は30s、無月経、徐脈、多毛の先祖返り、などの症状が出現しました。外来では治療困難と言う理由で入院した時に私が主治医になったケースです。入院すると病院食なので自分で制限する必要はないのでホッとすると同時に、病院食に任せると太ってしまうという不安が意識されるようになりました。それで自分に課したエクササイズと食事制限を完璧にこなすか、それとも病気を治すために病院食に身をゆだねるか、というジレンマに陥ったのです。そこで彼女は入院と言う保護された環境から離れたら、再び完璧主義が復活できると考えて、つまり病気を治したくないのです、私に執拗に退院要求をしてきたのです。私は退院を許可せずに、淋しさ、無力感が辛いのだろう、と解釈したところ、ズバリ当たってただけに彼女は怒りだして、その怒りが活力になって病から脱出したのです。災い転じて福となすという典型例です。

BPDの青年は1日に腕立て伏せ800回、スクワット1000回、腹筋1200回を掟として自分に課して入院中は常にエクササイズに余念がありませんでした。病気が深刻になるにつれ、完全主義が動員されて20回からスタートした腕立て伏せは800回とエスカレートしていったのです。彼は掟を止めると、だらしない自分になってダラダラと食べ続けるので掟は捨てられないと訴えました。しかし、掟を守り続けるのも苦しいし他の患者さんとの交流の妨げにもなる(なにしろ1日中、病室でエクササイズに明け暮れるために)。やがて彼は掟を放棄しました。それからは売店に行ってはお菓子やパンを買ってベッドの上でダラダラと食べ続けたのです。それで摂食障害は収まりました。口の周りは幼児の様にクリームをつけて、呆然とした表情で食べ続ける彼の姿は今でも忘れられません。パンを味わうのではなく、詰め込むように食べ続けるのはBPDの「ボア」のせいだということがわかったのは5年後のことでした。専門的に言うなら、「ボア」が耐えられないので完全主義が防衛に加勢していた、ということです(「ボア」については精神科読本『境界性パーソナリティ障碍』を参照)。

外出恐怖症の主婦は独身時代から家計簿をつけて病気をしてからも克明に記録を続けていました。それに家事を完璧にこなすという作業を自分に課していました。毎日きちんとやれたかどうかは彼女の関心事でありその成果に一喜一憂していました。できないと自分を責め、落ち込み、外出恐怖症の病態を複雑なものにしていました。当時の私は臨床経験が浅く、手を抜いてはどうか、という今に思えばとんでもない介入をして患者さんを苦しみのドツボに陥れたのです。彼女は家計簿を止めて家事も放棄しました。案の定、自分の生きる意味を失い生きる屍同然になった、と私に訴えました。20年間守り続けてきた家計簿を中断したのは間違いだった、と私を責め立てました。ところが、ここで逆転現象が起きて、彼女は友人の手を借りずに自分の力で受診できるようになったのです。幼少の頃からしつけに厳しかった母親。それとは全く正反対の主治医の対応。父親が芸術家で理想の男性だったこともあって主治医の意見を受け入れたのです。その矛盾が彼女のなかで弁証法的な緊張となり、どちらであってどちらでもない、という答えのない問題を抱えることができるようになったのです。

2.病気と完全主義

 若い頃に出会った3人の治療経過を取り上げたのは、病気と完全主義は互いに分離せずに絡み合っているので、それを時間かけてほどく必要性があるということを言いたかったのです。

 3人とも治療経過の中で「完璧かずぼらか」の二者択一というジレンマに陥りました。答えが出ないのは彼らにとって歓迎されません。どっちかに割り切りたいのです。病気の発症の過程で完全主義が暗躍して病気をさらに進行させる、と言ってよいかもしれません。痩せたいという思いでダイエットする女性は多いと思いますが、完全主義者はそこから一歩進んで病の中に迷い込むのではないでしょうか。ですから、病気から解放されるためには完全主義を放棄しないと先に進めないのです。でも、それを捨てるのは彼らにとって容易なことではありません。と言うのは、彼らをこれまで支えてきたのは完全主義と言う性格だからなのです。そういう自分がまた可愛いのです。しかも、完全主義の正の要素に馴染んできたわけですから、負の要素が大きくなったからと言う理由で早々に捨てるわけにはいかないのです。捨てると、自分はだらしなくなってしまう。そのとんでもない自分とはこれまで避けてきた自分の一部なのです。それでは、彼らが安心して完全主義を緩める道が果たしてあるのでしょうか。

V.完全主義からの脱出

答えはyesです。完全主義を緩める策があるのです。私が完全主義の性格を治したいという患者さんの希望に応えて成果を上げたのは弁証法的アプローチと呼んでいる治療法です。

症例を2例、それぞれ強迫とナルチシスティックな症例を呈示して、完全主義の扱い方に関する弁証法的アプローチについて述べましょう。

1.症例A:強迫的な完全主義

 患者さんは強迫的な完全主義のために仕事に急き立てられるかのように没頭して、残業も自らの判断で取り組み、疲れ果てて仕事に就けなくなって精神科クリニックを受診しました。家族の勧めでやっと重い腰を上げたのです。主治医に「うつ状態に陥っているので休養し、お薬を飲みましょう」と説明されたのですが、仕事を休む状態に陥った自分がたまらなく嫌になって、処方された薬を一度に服用し、家族を巻き込んだ状態になってしまいました。主治医や家族は「完璧にやろうとするから疲れるのよ」と主張して休養を勧め、本人との間に「休め」と「仕事に行く」という二進も三進もいかない状態が続き、その緊張を和らげるかのように患者さんは自傷行為を繰り返すようになったのです。それで私のところを受診してきました。それまで行われていた薬物治療を整理し、半年後強迫的な完全主義に焦点を置いた治療へと進みました。

 患者さんの「働きたい」という心情に与すると休養はありえない話です。しかし、それだと永遠に安らぎは訪れません。イカロスの翼です。かと言って、周囲から「手を抜きなさい」と説得されるのは、身体は楽になりますが心の方は「駄目な自分になる」という恐れが支配的になります。それで、このどちらも成り立たない両極端な考え方をバイポーラ―セルフ(bipolar self)と擬人化して「あなたは完全主義の自分が支配的なようですが、周囲の人たちが勧めるようにもうひとり楽を求めるズボラな自分を育ててはどうでしょうか」と介入しました。「どういうことですか」と訊ねられたので、「完全主義を生かすためにもズボラな自分を心の中に住まわせ、二人をしばらく心の中に抱えていくのです」と説明しました。「抱えているだけでよいのでしょうか?」「そうです。そして次に、二人の間であれこれ対話をさせてみてください。例えばこんな風に。少しは休めよ。完全主義だと目標を達成するために躍起になって音楽や芸術を楽しめなくなるよ。嫌だ。楽を求めると成長・成功は見込まれない。あなたみたいにズボラな生活を送って何が得られるでしょう。活き魚は流れに逆らって泳ぐ、というではないですか。その通りだね。でも、何事も完全にやり遂げようとすると人間にとって大切な情緒を失うような気がする。・・・・」。この問答を続けていくと「答えが出ないですね」と彼女はつぶやいたのです。「答えが出ないのは当然です。アインシュタインも答えを出せない問題なのです」とコメントすると、彼女は「やってみます」と言って帰ったのです。それから彼女は「私なりに答えが出ました」と述べて、説明してくれました。ボーダーライン状態は半年ほどで改善し、仕事を休むことなく続けることができたのです。

 ヘーゲルは子どもが大人になるまでの思春期青年期の課題は個を押し通せば社会が困り、社会を慮ると個が無くなる、この背に腹を変えられない矛盾を引き受けて生活することが大人への第一歩だと述べました。あなたが友だちとの間でむしゃくしゃして部屋で大音量のロックを聴くと、必ず母親がやってきて近所迷惑だから音量を下げるように言ってくると思います。母親の意見に従えば気分は一向に晴れません。反抗すると気分はすっきりしますが近所に迷惑をかけて一波乱が発生するかもしれません。この矛盾を自分の問題として抱えていくのが大人になることだとヘーゲルは言ったのです。

2.症例B:ナルチシスティックな完全主義

 会社を辞めて治療に専念し、1年ほどで一時期の抑うつ状態から脱してアルバイトに出たBPDの患者さんです。「今度の職場は楽しいです。皆さん優しくてここならやって行けそうです」と喜んでいました。私は、彼女の現実の一部だけを切り取って、それを全体と見てしまう思考過程に思いを寄せて、「次回は落ち込んで来るだろうな」と予想しました。案の定彼女は「イライラします」と訴えて機関銃のように喋り続けました。何がイライラするのかと言うと、正社員の人たちはアルバイトの自分たちに仕事を任せて呑気に野球のドラフトの話をしたりして仕事を怠けている、というのです。ちゃんと仕事をしないのでイライラしてたまらないという。それで私は彼女の完全主義を取り上げました。

私:「完璧に仕事をこなす自分と比べると腹が立つのだ」

B:「そう。いっつも仕事をしないのですよ、あの人たち」

私:「私は私、彼らは彼ら、と考えられないんだ」

B:「腹が立つ。思い出すだけでイライラします」「どうしたらいい、先生」

私:「いい考えが浮かびました」

B:「えっ、何ですか」

私:「弁証法というやり方なんだけど。私がBPDの患者さんから教わった方法です。完璧主義の私と、その真逆のおっさんを心の中に作るのです。そして、二人の間で対話させてみてください。例えば、ちっとはしっかり働いてよ。あんたがいるから私たちは楽ができる。宜しくね。そーんな、一緒の仕事をして給料は私たちの何倍も貰うんでしょう。それは申し訳ない。でもあなたたちがいるから私たちも助かる。でもそれだと私たちアルバイトは損するだけです。・・・・・実演したように、完全主義は周りを助けるけど自分には利益がない。でもおじさん社員のような働き方は性に合わない。でも、ぐうたらおじさん社員は楽をする。この両極端のあなたを対話させてみてください」

B:「えーっ、それだけでいいのですか」

私:「一時期でいいと思います」

B:「でもよく考えたら答えは出ないみたい」

私:「弁証法的やり方は答えが出ないのミソなのです」

 こうして彼女は社会適応能力がアップして、1年ほど勤めることができたのです。

W.さいごに

 症例として提示した二人の患者さんは事あるたびに相反する性格を持つ二人の自分、つまり私が呼んでいるbipolar selfを対話させる機会を登場させて、どちらか一方に片寄らないようにバランスを取れるようになりました。つまり完全主義を放棄せずに完全主義に振り回されなくなったのです。それは心の中に完全主義の自分と、それとは真逆のズボラな自分を心に置いておけるようになったからです。

完全主義をもつ人は少なくありません。もし、自分もそうかなーと気づいておられるようでしたら、この弁証法的思考を身につけると、完全主義に気づき自分を見失うことも少なくなると思います。

posted by Dr川谷 at 13:15| Comment(0) | 臨床ダイアリー
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