2016年06月27日

臨床ダイアリー⒑:怒りのコントロールについて4

臨床ダイアリー10:怒りのコントロールについて―4−

 最後の章になりました。昭和初期までの日本人の父親には権威があり、その力が父親以下の暴力の抑止力になっていた。だから昭和40年代頃までは父親に抑えられていた若者に「怒りの感情を解き放せ」と叫ぶ寺山修司という詩人が登場した。ところが、父親の力が弱くなると家庭内暴力が勃発し、パーソナリティ障害の若者が増加した。そして三波春夫が「お客さまは神様です」と宣言した後に、あちこちからモンスターが躍起するようになったのです。モンスターペアレント、ストーカー、炎上するネット、ヘイストスピーチ。2016年1月にはベッキーの不倫叩きから6月の舛添東京都知事叩きへと続き、テレビもネットもそして週刊誌も怒りの暴走が続いています。その背景にあるのは何なのでしょうか?週刊誌は売れるから、テレビは視聴率を取るから、袋叩きを止めないのでしょうが、私たちは情報に何を求めているのでしょうか。
 一方、日本から世界へ目を移すと、イスラム国の暴走による難民問題に終わりが見えません。読売新聞に「地球を読む」というコーナーがあります。それに米外交問題評議会会長リチャード・ハース氏が投稿していました(平成28年6月19日)。「今日の米国内で支配的なのは、むき出しの怒りではないにしても、ある種の強い不安である。ワシントン・ポスト紙は最近、大衆の怒りが向かう矛先として、ウォール街の金融市場、イスラム教徒、外国との通商協定、ワシントン政治、警官による容疑者らへの過剰な発砲、オバマ大統領、そして移民と言った『標的』を取り上げた記事を連載した」と不安と怒りをもはやコントロールできなくなったアメリカの様子を述べています。
 イスラム国の残虐な行為を報道によって見聞きするたびに人間の感情(不安と怒り)を制御していたのは実はアラブ諸国の暴君による力であって、宗教や人間の英知はその抑止力にすらなりえていないという事実でした。とすると、「感情のコントロール」という本章のテーマは胡散臭いものになってしまいます。『巨人の星』で息子に課した大リーグ養成ギブスは虐待のなにものでもない。そこに父親の愛があったという言い訳も通用しないではないか、という家庭内暴力児の叫びに誰が異を唱えることができようか。最後にボロボロになった飛雄馬の身体を抱いて泣いていたのは父親だった。『巨人の星』を、飛雄馬は父親の自己愛の道具にすぎず、反抗すると叩かれ、最後は肩を壊してしまうという悲劇として読み直すこともできます。
 頭から抑えてきた父親がいなくなった途端に怒りの噴出。この背景には、子どもから大人になるまでに欠かせない、怒りをソフィスケートする人生訓練が欠けているように思われます。怒りの最良の抑止力は、暴君に対する臆病さではなくて、臆病さによらない内的な「良心」だと考えていた私には、もはや「感情のコントロールの仕方について」語ることは何もなくなった気がします。そう言ってごまかしているという声も聞こえてきたので、無い知恵を振り絞って最後まで書かないと、昭和40年代後半から出現した境界例や家庭内暴力児による「怒り」を心の奥底に保存したままになります。
 つい最近、娘の通院に付き添っていた母親から「娘のパーソナリティ障害の原因は私にあるのですか」と問われました。母親は心外だと私に抗議します。「全くない」というのは嘘になるし、「すべてが母親のせい」でもない。「子どもは一人で生きていけるようになるまで親に頼っているわけだから、パーソナリティ発達はその親に影響を受けるのは間違いないでしょう」と説明し、「1/3は遺伝子によって運ばれた気質、1/3は親の養育、1/3は学校教育を含むその後の生い立ち」と返事しました。母親は納得いかない顔をしていましたが、それ以上説明するのを控えました。この親子にはまだまだ熱い戦いが続くのだとは思うのですが、それこそが宗教や世間知によらない感情コントロールの第一歩に間違いないと私は思っています。

V.怒りのコントロールについて
 それほど昔のことではないですが、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という少年・少女から大人に向けた質問がありました。当たり前のことだと考えていた当時の大人たちにとって「なぜ人間は死ぬのですか」という小学生の質問同様、答えづらい問題でした。いろんな分野の専門家たちが大真面目に答えました。私もパーソナリティ障害の治療から得た知見をもとにこの問いに答えてみたいと思います。
 1.怒りの抑止力
 怒りを抑止するのは一つに外の力です。このことは紛れもない事実です。それが家庭の一員である父親、学校の先生、仲間を統率するボス、地域の代表や警察官、会社の社長などが持つ力は支配下の者を力で抑えているのです。その力は、ボス自身の持つ力に加えて、権力によって力を倍加させます。絶大な政治「力」を持った政治家が失脚すると途端に萎んでしまって、哀れな格好でマスコミで報道されるなどを見ると「化けの皮が剥がれた」と同時に「もともとは現実的な力など持っていなかった」ということが理解できます。中には権力を得てから人が変わったかのように攻撃的になる人もいますよね。
 二つ目に内的な「良心」による抑止力です。それには相手を傷つけて辛い思いをさせてしまった、という共感能力が発展していないと抑止力になりません。相手の心を想像するミラーニューロンの大発見は1998年のイタリアのジャコーモ・リッツォラッティのグループです。攻撃を加えた人の苦しみを想像できるようになるには、大人になるまでの長いあいだに自分の攻撃による悲劇を体験することが欠かせません。そしてその罪悪感は3歳までに芽生えてなくてはいけません。これがその後の攻撃性の抑止力になります。三つ子の魂百までと昔の人は言いました。
 この二つ目の良心こそが攻撃性の抑止力の基盤になるのです。でも、相手の心を想像できない人だと何が抑止力になるのですか、という質問があるかもしれないですね。反社会性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害の人たちだと、相手のこころにフィットできないので、自分の心の赴くままに攻撃を加え続けるかもしれません。社会は刑を与えて反省させようとするのでしょうが共感能力が育っていないととても難しい問題です。昨年、酒鬼薔薇聖斗(元少年A)は『絶歌』を出して、彼が更生しているかどうか話題になったけど、彼が受けた更生への矯正プログラムを見ると、そのやり方では更生は不可能だと思いました。それはとても拙い素人のやり方です。親切な女性担当官が愛情を注ぎ続ける、というやり方を誰が考案したのは知らないのですが、何をヒントに思いついたのか疑問に思います。それではどうやって共感能力を育てていったらよいのか考えてみましょう。
 2.繰り返される暴力
 最初に、歯止めが利かない残虐な暴力について説明しようと思います。それは共感能力を育てるヒントになるからです。かつて私は精神分析事典の『攻撃性』の項目の中でウェルダーの攻撃性の3つの現れ方について言及しました。@不満あるいは危険に対する反応、A自己保存の産物、B性本能に伴う現象、の3つです。彼は攻撃性の反応性を強調し、生来の破壊欲動は想定しないでもよいと考えました。しかし、残された問題として、上記の3つの現象のいずれにも当てはまらない「本質的な破壊性」、その例の一つとしてヒトラーのユダヤ人に対する飽くなき憎悪を取り上げました。この「破壊性」は、限りなく無尽蔵で、性的興奮や飢えによる行為とは本質的に異なっており、意識的および無意識的空想と関係したものです。どうやら私たち人間には他の動物にはない反応性の攻撃性とは異なる「破壊性」を持ち合わせているようです。
 恋人や妻に振るう冷酷で執拗な暴言・暴力は反応性の攻撃性と違って、相手の心身をともに破壊尽くす容赦のないものです。しかもそれは寄せては返す波のように限りなく現れ続きます。暴力は決して止むことなく延々と繰り返されるのです。この反復する衝迫を専門的には「反復強迫」と言って、私は臨床ダイアリー『トラウマと反復強迫』の中で重要な位置に置きました。フロイトがこの反復強迫を死の本能と呼びたかった気持ちも分からないではありません。理解をこえたものに出会うと私たちは、それを異物か、あるいは神の仕業として遠ざけようとする習性を持っています。フロイトもそうだったと思います。今日では同様に、「発達障害」や「間欠性爆発症」が脳の病気にされてしまいました。人間の心は単純に割り切れないもので、生来の気質と環境要因が縄を編むように絡み合って形成されるものなのです。脳だけの問題ではなかろうと思うのですが。
 話が脱線してきました。破壊性に戻って、破壊性と攻撃性の違いは、攻撃性が現実原則(禁止)に出会ったときの反応であるのに対して、破壊性は貪欲で冷酷な、破壊の貪欲な力として作動します。破壊性を動物にはない「憎悪」と言い換えることもできます。この憎悪については、前回紹介したカーンバーグの考え方が臨床的です。彼は攻撃性をさまざまな生来の感情から統合される一つの欲動として捉え、「発達論的に欲求不満にさせる母親への強い愛着が怒りから憎悪への変化の究極の起源である」と述べました。愛着と憎悪を結びつけたのは、攻撃性が本能的なものかどうかは別にして、とても重要な治療的工夫へと導いてくれます。
 1)怒り(憎悪)の反復強迫
 ここまでを要約すると、人間には他の動物と違って攻撃性とは異なる「破壊性」を持ち合わせています。そして、その破壊性を憎悪と愛着という観点から眺めると新たな治療の糸口が見えてくる、と私は実感を持って強調したいと思います。
 臨床ダイアリー『トラウマと反復強迫』のなかで私は、幼少期の母親と赤ん坊のペアリングが上手くいかないと、それがトラウマとなって子どもの脳にダメージを与え、愛着障害を引き起こし、反復強迫というトロッコが走り出す、という話をしました。そしてトロッコに乗せるもの、つまり空想や感情を意識化しないとトロッコは止まらない、という話をしました。「私は悪い子」空想だと自傷行為へと発展し、トラウマによる「感情」は破壊性へと繋がります。子どもは受身的に受けたこころの痛手を能動的に遊びの中で反復させることで自己治療します。そしてそれは、脳の発達に影響を与え、誰かと一緒に遊ぶことのできない姿として幼少期に現れます。しかしこれらの記憶は成長すると忘れ去られます。
 ところが3歳児検診の様子を克明に覚えている患者さんの報告を何例も経験しました。その中には自分の体が臭い(自己臭恐怖症)という病気で苦しんでいた女子高校生は私との治療の中で愛着を示すようになって回復しました。別の症例になりますが、母親に暴力を振るい続けるチャイルド・ボーダーラインの女の子は3歳児検診で以下のような振る舞いをしたと言います。小児科医から別室で心理士の検査を受けるように言われて、「どうしてそこで受けるの(ここでは駄目なの)」と喋ったと言います。このエピソードは母親が記憶していましたが、分離不安の強い様子が描かれていて、私との治療のなかでは年上の成人女性に愛着を示してから劇的な回復を示しました(自著『自傷とパーソナリティ障害』を参照)。
 何れも幼少期の母親との愛着障害が見られ、私との治療の中でペアリングが起きて劇的な改善を成し遂げました。このペアリングのよい例としてジャン・エイブラム(今年の夏に来日予定)は、ウィニコットの攻撃性に関する理論について、「外部環境は幼児が自らの生まれつきの攻撃性を扱う方法に影響を与える。よい環境において、攻撃性は作業や遊びに関連する役に立つエネルギーとして個々のパーソナリティのうちに統合されるが、一方で剥奪された環境においては暴力や破壊を生み出すことになる」と述べています。
 最近でも、本人の承諾を得ていないので、ここでお話しすることはできないのですが、両親に対する憎悪の裏に愛着があることに気づいて暴力を振るわなくなった症例を経験しました(それは自著『思春期と家庭内暴力』の中でも取り上げています)。確かに、家族から子どもの冷酷で執拗な暴力の相談を受けて「暴力の裏には愛着があると思います」と説明しても、暴力の抑止力には決してなりません。何故なら、私との間で愛着を体験していないからです。また相談者は暴力に対してどう対応したらよいか、という直接的な介入を求めるものですからとても難しいのです。かつては「毅然とした対応」を勧めた精神科医も数多くいました。それができない程に暴力が凄まじいものであることを気がつかない精神科医が多かったのです。だから直接的な抑止力としては、外の力(例えば警察官)に頼らざるを得ないのではないかと、私は助言するのです。
 公権力に頼るというやり方の裏には「あなたの暴力はあなたのコントロール能力をはるかに超えたもので、外の力でもって抑えてもらうしかない」というメッセージと同時に、公権力を借りるのを良しとしない親の心の裏にある見栄と世間体が隠されていることを親に気づいてほしいから、そうアドヴァイスするのです。日本で最初の家庭内暴力は素戔嗚尊が姉の天照大神に振るう暴力ですが、江戸時代にあった『女殺油地獄』で戯曲化された事件は、主人が亡くなって店を継いだ番頭上がりの徳兵衛は遊女に入れあげる放蕩息子の与兵衛への「遠慮」が仇になって攻撃性の抑止力とならなかったのです。ある父親は暴力を振るう高校生の息子の機嫌をとるために言いなりになって外国旅行に一緒に出かけたりして、私のアドヴァイスをことごとく無視しました。無視する気持ちを聞くと、公権力のお世話になるよりはという世間体を重視したというのです。「それでは駄目でしょう、お父さん」と言いたくなりました。
 2)憎悪の起源
 とは言っても、公権力に頼るのもできれば避けたいものです。世間体はもちろんのこと、子どもを犯罪者扱いしたくないという親の気持ちも分からないではありません。ではどうするか?長い治療過程になるのですが、私は憎悪の裏にある現実的な自己愛の傷つきと愛着を軸に過去の子育てを想い返し、次のステップに移るしかないのではないかと思います。あるボーダーライン(BPD)の青年の場合、両親の家族療法の中で以下のようなエピソードを思い出したのが大きな治療展開になったケースがあります。
 ケースは私との週3回の精神分析的精神療法の中で連想が進まず締りのない表情をすることがしばしばありました。その姿を後に母親は、「社宅の砂場で遊んでいた子どもが、私が居なくなると、目に力がなくなりボー然と立ち尽くす姿を近所の奥さんから聞いて知った。その姿は小6の修学旅行の記念写真にもそっくり写っていた」と思い出したのです。詳しく述べる余裕がないのですが、この現象はBPDの中心病理だと考え『ボアbore』という専門用語を思いつき、日本精神神経学会の電子版2013年4月『境界性パーソナリティ障害の現在』に投稿しました。
 精神分析的には「対象恒常性」の欠如と言われる現象で、BPD患者が母親の不在に上手く対処できないのは、内的対象が育っていないからだと言われています。ウィニコット著『ピグル』の中でも同様の現象が取り上げられ、ピグルは妹の出産直後(ピグル1歳9カ月)から精神的変調を来し、母親はその始まりを“she becomes easily bored”と表現しました。そしてそれは、周囲の者には「一見退屈で、ぼんやりして生気のない、周囲に関心を示さない」表情に映るが、「退屈したり、ぼんやりしたり、不満であったり、そしてときには無茶苦茶に破壊的――物を引き裂いたり、壊したり、汚したりする――であった時期を通り抜けてしまったようです」と母親が描写するように、ピグルの母親不在時に移り変わる精神状態の一コマとしても使用されました。
 この「ボア」は生まれつきの欠損なのか、あるいは母親の育児の困難によってかははっきりしないのですが、上に紹介したケースの母親は産後うつ病に罹り子どもとの間でのペアリングが難しかった、パーソナリティ障害の危険が高くなるのです。母親の不在に過敏に反応する幼少期の問題は脳の発達にも影響を与え、後のパーソナリティ発達に影を落とすことになります。
 脳科学者の中田力は著『穆如清風』(2010)の中で次のように述べています。「大脳皮質の学習法が推計的であり、記憶の集合体として作られる心の形成過程がポリアの壺の原則に従うということは、成長した人間の心の持つ特徴には、強い幼児体験依存性があることを意味している」と述べて、精神疾患の原因は愛着障害だと結論づけました。脳への影響は臨界期3歳までに育つ「社会的な脳」の失敗につながります。「社会的な脳」とは人を思いやる能力のことです。3歳以前にトラウマ(ペアリングの失敗を含む)を受けると、眼窩前頭部前頭前野(OF)は扁桃体との間で太いパイプを形成し損ねてパーソナリティ形成に障害を残すのです。
 3)憎悪からの解放
 1歳半から3歳までの母子関係における愛着の障害(ペアリングの失敗)は後のパーソナリティ形成に負の影響を与えます。しかし、この1歳半以降の愛着の障害は後のペアリングのやり直しによって修正可能というのが私の見解です。いずれ臨床ダイアリーで発表する予定です。愛着の失敗は憎悪の起源になるというカーンバーグの見解ですが、ウィニコットは『逆転移のなかの憎しみ』(1947)のなかでカーンバーグ以前に論じています。長くなりますが、とても大切なことなので引用します。
 「母親は、赤ん坊を憎むことを、・・・・・容認できなければならない。しかし、それを表現することはできない。・・・・・自分の赤ん坊によってひどく傷つけられながら、子どもに報復しないで大いに憎むことができる能力、そして後日、あるかもしれない、あるいはないかもしれない報酬を待つ彼女の能力である。・・・子どもには憎むための憎しみが必要なのである。・・・・・患者が病気だった初期の段階では患者に知らされていなかった、分析家が何を感じていたかということについて、分析家が患者に話すことができなかったなら、その分析は不完全なものである。・・・分析家は、乳児に身を捧げる母親がもつ根気と耐性と当てになること、のすべてを発揮しなければならない。つまり、患者の願望wishをニーズとして認識しなければならない。役に立ち、時間に正確で、客観的でいるために、その他の興味は傍へ置いておかなければならない。患者のニーズだからこそ現実に与えられているものを、分析家が与えたがっているのだ、と思われる必要がある」。
 子育ての中で母親は子どもを憎むことがあるけれど、子どもに報復せずに憎む能力が必要だとウィニコットは強調します。そしてウィニコットは、生まれた幼児に対する母親の憎しみと、退行した要求がましい精神病的な患者(憎悪に満ちた振舞いをする患者を想定したらよいかと思います)に対する分析家の憎しみとの比較をする過程で、愛することとならんで憎むことができる能力は、アンビバレンスに到達したことを意味していると論じました。これが、相対的依存の時期と思いやりの段階に幼児が到達したということです。この思いやりこそが憎悪の抑止力であり、憎悪からの解放になるのです。
 4)さいごに
 長いエッセイでした。4つのエッセイを合計すると原稿用紙50枚ほどになりました。最後は息切れして幕引きが難しかったので、少し説明を加えて終わりにしたいと思います。
 人間の攻撃性は他の動物には見られない「憎悪」という破壊性を持つのが特徴で、この「憎悪」に取りつかれると相手を容赦なく攻撃し繰り返してしまう。「憎悪」の起源は1歳半から3歳までの幼少期の母親とのペアリング失敗にあり、その失敗は「社会的な脳=思いやり」の形成過程に負の影響を与えるが、その後の人生の中でペアリングのやり直しによって「憎悪」の背景には愛着の障害があったことを重要な人との間で気づき、生きなおすことが可能だというのが今回の「怒りのコントロールについて」でした。
 本当は、怒りのコントロールというのは欧米人の考え方であって、私たち日本人は感情をコントロールするのではなく、感情を表に出すその引き出しを豊富にする仕方について述べる予定でした。私たち日本人にとって感情をコントロールするというやり方は脳に負担をかけるだけで何も良いことは起きないのです。欧米人は対象をコントロールする術に多大のエネルギーを費やしてきたし、認知行動療法の思想にもそれは活かされていますが、台風がやってきたら通り過ぎるのをじっと待つのが日本人の知恵なのです。でも私の臨床について語ることができたので良しとします。
posted by Dr川谷 at 09:54| Comment(0) | 臨床ダイアリー
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