2016年05月23日

臨床ダイアリー6:「泣くのは私が弱いからですか」

臨床ダイアリー6
2016.05.22(日曜日)『泣くのは私が弱いからですか?』
T.はじめに
 川谷医院に通院している患者さんたちにこの臨床ダイアリーを読んで貰いました。多くの方から「内容が難しい」「長すぎて一気に読み終えない」という感想をいただきました。それで今回は、原稿用紙10枚以内で終わるショート・エッセイにしました。タイトルは、ある患者さんから診察時に『泣くのは私が弱いからですか?』と質問された経験が元ネタになっています。
 この問いは、現代人にとってとても大切なものを含んでいるように思います。というのは、泣くという行為を「良い」か「悪い」に二分する思考過程からは何も生まれないからです。つまり、「泣く」=弱いと単純に割り切ろうとする現代人の考え方に重要な問題があるような気がします。泣く=こころが弱いという思考過程は、患者さんと彼/彼女を取り巻く人たちの両方にとって不幸なのです。何故なら、二人の間には何も生まれないからです。
 もし泣いている患者さんの話を聞いて、あるいは泣くという行為から彼/彼女の心を想像して貰い泣きしたとします。すると、そこには心の交流が発生します。二分法では決して起きない、何かが生まれる可能性空間が生成された瞬間です。だから問題にしたいのです。
U.オペラ『蝶々夫人』を観て
 今日の午後はプッチーニ作曲『蝶々夫人』を鑑賞しました。1986年にミラノ・スカラ座で上演された演出:浅利慶太、衣装:森英恵、照明:吉井澄夫という豪華版のDVDです。演出もよし、衣装もよし、そして照明が素晴らしい。私の中ではこれまで見た『蝶々夫人』のベスト1位です。蝶々夫人を外国人ではなく林康子さんが演じたのも違和感がなくてよかった。贅沢を言うなら、スズキを演じた田中路子に蝶々夫人を演じさせたかったですね。
 このオペラを観ているときに「泣くのは私が弱いからですか」と問われたことを思い出したのです。DVDでは涙することはなかったのですが、それに近いようなカタルシス効果を覚えました。オペラの劇中では泣くことは美しいシーンの一つです。劇場ですすり泣きしている人を見て、感動できる感受性を恨めしく思うことはあっても否定することはない。男性であれば「涙腺が緩んだ」と言い訳することはあるでしょうが、決して「悪い」と批判するひとはいない。
 患者さんの質問は『オペラ』に感動して泣いているのではない、と突っ込みたくなるでしょうが、今しばらく「泣く」ことについて時間を割かせてください。泣いている子どもを揶揄することはあります。でも決して「泣くな」と怒ったりはしませんね。子どもは泣く存在だからです。子どもの頃、私の姪は兄の甥と喧嘩すると、気の弱い兄に向って「泣け」と言って甥を泣かしていました。この場合の「泣く」は喧嘩に負けたことを意味します。いろんな「泣く」があります。
 1.『日常臨床語辞典』のなかの「泣かれる」
 須賀先生によると人が「泣く」には三つの誘因があります。痛みや衝撃といった身体的な誘因、悲しみや怒りといった感情的な誘因、そして感動や敬虔さといった精神的な誘因の三つです。この三つの誘因に、「内的な降伏」という特有な契機が重なって「泣く」という行為が生れるという。そして文化論に移り、「成人した男性がなくことは、むしろ『女々しい』こととされる」と続きます。
 男性が泣くのは女々しいとよく言います。ところが、『源氏物語』を読んでみてください。成人した男性がよく泣くんですよ。源氏物語の一巻「桐壺」から泣くシーンが出てきます。それを林望謹訳『源氏物語』の桐壺の巻から引用します。
 最愛の更衣との別れのシーンで、帝は「あれやこれやと泣きながら約束などなさろうとするけれど・・・・」とあります。次いで、若君(後の光源氏)を里に出す際にも「父帝も絶えず涙を流しておられる・・・・」と昔の日本人男性は女々しいのが普通だったのです。すぐに袖を涙で濡らします。歌舞伎を観ても、文楽を観ても、劇中の日本人はよく泣く。「泣き虫なまいき石川啄木」とも言います。石川啄木は明治の人です。まだこの頃までは日本人は泣いています。
 2.日本人は明治から泣かなくなった
 2011年3月の大震災で「なぜ日本人は泣かないんだ」という韓国人による疑問がネットを中心に話題を呼びました。ホントに日本人は泣かなくなった。何時頃からでしょうか。確か、柳田國男がこの疑問に答えています。手元に資料がないので、古い記憶を頼りに書きますが、日本人が泣かなくなったのは明治に始まった学校教育の方針によるものだったようです。明治になって欧州を手本にして騎士精神を輸入したときに始まるそうです。
 明治の学校教育によって「泣く」ことはいけないことという考え方が吹き込まれ、もともと辛抱強い日本人ですから、泣かない日本人が生れたというのが柳田國男の説です。これは本当かもしれないですね。幼い頃から、泣くな、メソメソするなと叱られつづけるわけですから、ちょっとやそっとでは泣かない子どもに成長します。でも、明治の頃は、大人はまだ泣いていました。夏目漱石が留学したロンドンで毎日泣いて暮らしているのを不憫に思ってか、下宿屋の女将さんは漱石に自転車をあげて、外に出したというエピソードがあります。大人になってメソメソ泣く日本人を見てイギリス夫人もさぞびっくりしたでしょうね。日本だったら普通のことだったのでしょうけど。
 落語、浪花節、浄瑠璃などの演芸ものでは作中の日本人は泣くのが普通で、それを楽しむ日本人も泣いて鼻水を垂らしていたのです。それが普通のことだったのです。しかし、日露戦争に勝ち、第二次世界大戦へと驀進し続けるころには泣かない日本人が形成されていったのです。大泣きしない、メソメソしないしない日本人が登場するようになったのです。
V.「泣くのは私が弱いからですか」について
 さて、本題に入る準備が整いました。昔の日本人は泣くことをいけないこととは考えなかった。むしろ泣くことでストレスを発散し、貰い泣きする周囲と一体感を得ていたのです。それが、明治に入って否定されて、21世紀の日本人にとって「泣く」ことは否定されるようになったのです。幼子がバスや飛行機の中で「泣く」と、それを迷惑がる大人が出てくるようになったのも泣くことを否定する現象の一つです。昔だったら泣く子を包み込む大らかな雰囲気があったのですから。東京都知事の舛添さんみたいな小さい、セコイ大人が増えたのです。
 私に質問をくれた患者さんは人生のあちこちで普通に生きていけない生き辛さを抱えています。アルバイトでうまく立ち振る舞えなくて、泣くのを我慢しながら帰ったのです。そして家に着いて感情があふれ出して泣きだしたのです。それを母親に咎められ、「泣くのは私が弱いからですか」という問いへとなったのだと想像します。人生に失敗して、泣いたことを咎められ、これでは泣きっ面に蜂です。
 「泣く」ことを否定する文化で育った現代の日本人には鬱積する感情を発散する術はありません。泣いてもいいんですよ、と気持ちを汲んでも、泣くことを否定されている現代人にとっては意味が通用しません。お母さんの応対が悪いと否定しているように受け取られ、ますます患者さんは苦しくなるだけだからです。ここは、泣くか泣かぬか、弱いか強いか、という二分する思考過程を何とかしないといけない。この間(あいだ)に楔を打ち込まねばならないのです。
 その時に感じていた思いや感情はどんなものだったのでしょう。その思いや感情を言葉にしないでいるとどうなるのでしょうか。ストレス状態が続くと病気になります。心身症を病んでいる人に特徴的なのはアレキシチミアAlexithymiaという状態です。心のなかに起きている感情を言葉にできない状態のことです。その感情は出口を塞がれて脳の視床下部というところで渦巻いて、終には、自律神経失調症やうつ病を発生させるのです。
 ですので、この渦巻く感情や思いを言葉にすることが大切になるのです。そして「泣くのは私が弱いからですか」という問いに、否定も肯定もしないことが重要なのです。二分法にたいして直接的に介入すると、つまり良いか悪いかと反応することは二分法を強化するだけだからです。「泣く」ことは弱いことではないと対応すると、いいえ母親は弱いと言います。母親の意見は絶対です。逆に、「泣くのは強い」と言えない。「泣く」ことを否定された現代人にとって「泣くことは強い」ということは嘘ごとになるので、口が裂けても言えない。口出しするとそんなことはないと否定され、口出ししないとますます「泣く私は弱い」となるので、いずれにしても二分法を脱することは不可能なのです。
 その時に二分法の思考に楔を打つことが求められます。これをウィニコットは可能性空間の生成と呼びました。私流に申しますと、心の中に鬱積し、脳の視床下部で渦巻いている感情を開放する場をつくるのです。それはどうやってするのか知りたいですね。「泣くのは私が弱いからですか」という問いに直接答えることを控えて、先ずは沈黙の場を作るのです。この間(マ)が感情の復活に必要なのです。間ができたら、どんな思いをしているのかを聞き出すようにします。物語る前に感情を取り上げるのです。その次に、物語を語らせると、もはや感情は鬱積することなく解放されるのです。私に質問してくれた患者さんのお母さんに「辛かったね」という一言が生まれていたら、患者さんはきっと救われたと思います。
 W.さいごに
 如何でしたでしょうか。今日は「泣く」ことを否定された現代人の不幸について考えてきました。そこにはAlexithymiaという心身症の病因となる状態を作り出す思考過程が潜んでいます。それを私は二分法と記してきました。別の言い方をすると、スプリッティングsplittingとも呼びます。このスプリッティングについては何れ紹介したいと思っています。
 感情を抑えると碌なことは起きません。しかし、それをそのまま「泣く」という行為で発散することも現代の日本人にとってはできないので、感情は鬱積し病気をつくる原因となるのです。そこから回復する道について述べてきました。できれば、皆さんが子どもを授かって子育てするときに参考にしていただけるととても嬉しいし、子育てが終わった人たちにとっては病気にならないように感情を大切にする気持ちを育ててもらいたいと願っています。
 感情はおさえるのではなくて表現するものです。つまり、表(オモテ)に出すことなのです。赤ん坊であれば「泣く」ことだし、子どもにとっては泣きながら喋ることになります。大人であればどんな感情や思いを体験しているのかを探る過程が大切になります。

参考文献
1.北山修監修・妙木浩之編『日常臨床語辞典』.誠信書房、2006.
posted by Dr川谷 at 09:28| Comment(0) | 臨床ダイアリー
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