2016年04月17日

怒りの内向についてーうつ病の理解のために―

2016.04.17(日曜日)『怒りの内向について』
T.はじめに
 最近になって気づいたことがあります。何人かのうつ病の患者さんからやる気が起きない、気分が晴れ晴れしない、自分は駄目だなーと思う、と気落ちした言葉を聞いたときです。患者さんに共通していたことは職場に戻り、あるいは大学に戻り、なかには専門学校に道を進めて間もないのに、「体がだるい。やる気が起きません。私は駄目です」と憂鬱そうにしているのです。そう判断するにはまだまだ早すぎるのではないか、と思うのですが、聞くと確かに抑うつ状態です。1か月前の3月には皆さんうつ状態から回復して表情も明るくやる気満々でした。私も大丈夫だと思っていました。
 なのに意気消沈して皆さんうな垂れているのです。そして「私は駄目な人間だ」と言って自分を責め続けるのです。そんなに自分を責めない方がいいですよ、とつい言いたくなるその瞬間に母の話を思い出しました。私の母が息子(私の兄)を亡くしてうつ状態に陥っていた時に、母の父親(私の祖父)がやって来て「(娘よ)泣くな。親よりも早く死んだ息子は親不孝者なんだ。泣いて自分を責めるのではなくて、親不孝の息子を責めろ」と言ったというのです。
この話は母から何度も聞かされていたので、精神科医になった当時うつ病の患者さんの診察のときによく思い出していました。そして、精神分析を学んでいた若い頃にフロイトの『悲哀とメランコリー』を読んで、祖父の言ったことは正しかったのだと驚いたものです。怒りの内向、というのがうつ病の心理機制なのです。本日は、このことを話題にして、最近になって気づいたことを書いてみたいと思います。
U.フロイトの『悲哀とメランコリー』(1917)
 フロイトはこの論文で悲哀とメランコリーを区別しました。誰しも愛する人や大切なモノを失ったときには悲しみに暮れます。しかしこの悲しみは時間とともに、喪の作業を経て、再び別の対象へ愛を向けられるようになります。喪の作業とは、肉親を失ったときの法事が一般的です。四十九日、一周忌、三回忌、十三回忌、と法事の際に亡くなった愛する人を思い出して悲しみを身内で共有することで悲しみが癒されます。
ところが、メランコリーの場合、愛する人を失った悲しみは悲哀と共通しますが、喪の作業は停滞し、外の世界への興味を失い、寝込んで何もできなくなり、そして永遠に自分を責め続けるのです。この自責の念は、現実とはかけ離れていて妄想的であることもあります。私が研修医の頃出会った切支丹の患者さんは、自分の体は不死なので海底深く沈み、永遠に苦しまなければならないと言ってました。
 1.メランコリー
 梓みちよの『メランコリー』は、私も古いですね、1976年にリリースされて大ヒットした曲です。「・・・・秋だというのに恋もできない、メランコリー、メランコリー・・・・・」というフレーズが思い出されます。本論で取り上げるメランコリーは精神医学用語の重度のうつ病のことであって、歌詞に出てくるメランコリー(哀愁)とは違います。
 さて、フロイトはメランコリーの心理機制を以下のように説きました。悲哀の反応が愛するものを失ったときに起きるのとは違って、メランコリーでは愛するものは具体的なものではなくて、観念的なものであると言いました。もちろん愛する人やペットを亡くしたとき、あるいは故郷を離れたときなどをきっかけにうつ病になることはあります。でもうつ病の患者さんの心の中では、何を失ったかを意識的にはよくつかめていないことが多いのです。
ある内科医はうつ病になって自分を責めて食事もとれなくなり仕事も手がつかなくなりました。そして、なぜそんなに苦しいのかと訊ねる家族に自分の処方した薬で患者さんに副作用が起きて自分はひどいことをしたからだ、と説明するのです。でも、よく聞くと、確かに医療事故はあったのですが、それは8年前のことで彼なりに誠意をもって償っていたことだったのです。それよりも彼の心は過去の出来事よりも自分がひどい医者であると責め続けているのです。
うつ病では対象喪失は悲哀反応のときほど意識されていません。周りの人が彼の心を理解しようとして落ち込んだ原因を探る、つまり喪失した対象を意識化させようとするのであって、患者さん自身はそのことにあまり関心を示していません。それよりも自分を責め、罵っているのです。悲哀の場合が失った人やペットが心の中に存在し続けているのと違って、うつ病の場合自らを見捨てた対象を責めているとは思わずに自分自身を責め続けているのです。
それではなぜ失った対象を責める代わりに自分を責め続けるのか?フロイトは失った対象に自分が成り代わって(精神分析的には自己愛的同一化)、失った対象を責める代わりに自分自身を責めるのだというのです。なぜ成り代わるのか?うつ病の患者さんの心の構成を注意深く見てみると、“良心”と呼ばれる部分がそれ以外の部分と対立し、良心を一つの重要な対象として捉え、自分は愛されるべき人間ではない、と考えているとフロイトは説きました。だから、自分を見捨てた人を憎むのではなく、私は見捨てられるに値する自分だと言って責め続けるというのです。 
2.怒りの内向=自責の念の背後にあるもの
うつ病を病んでいる人、あるいはうつ病に罹りやすい人の心の中は“良心”という対象と良心と対立する部分とに分かれて心を構成しているので、健康なときには秩序を愛し良心に従って考え行動するので周りからは高い評価を得ています。ところが、自分が良心という対象から愛されるべき人間でない、という現実の出来事が起きると、多くは愛する人を失うという体験をきっかけに、良心に成り代わって自分を責め続ける、というのがフロイトのうつ病理解です。
冒頭に戻って、元気になって現実社会に戻ったうつ病の患者さんの嘆きに耳を傾けていると、フロイトに倣うと、「復帰を許してくれた会社に申し訳ない」、「学校に行かせてくれた親に申し訳ない」「自分は駄目だ」という訴えは、以下のように翻訳し直すことができるでしょう。現実世界でうまくいかないのは、「甘えているからだ」「努力が足りないからだ」「もっと叱咤すべきだ」「努力が足りないからだ」と言って自分を責めているのです。久しぶりの社会復帰に戸惑い、そして当然疲れているはずなのに、“良心”の期待に応えていないという心の背景には“良心”の求めるハードルがとても高いということが分かります。別の言い方をしますと、“良心”の求める高さをこなせない自分が悪い、といって自責の念に苦しむのです。
この心理状態では何をやっても達成感は得られません。患者さんにとっては“良心”を頂点とする心の世界が現実であって、実際の現実社会はこころから締め出され否認されています。それで何人かの患者さんに「本当はもっとやれるはずだ。やれないのは努力が足りないからだ。甘えているせいだ、と思っていませんか」と訊ねてみました。皆さんそうだと言います。「でもそう考えるのはあなたにとって大変なことなのではないでしょうか」とコメントしますと、頷いてはもらえますが、患者さんには不満が残るようです。
V.自分に対する“怒り”の収め方
それでは、どうやったら自分に対する“怒り”を納め、自責の念にいたぶられないようにするか?フロイトの公式的に倣うと、「うまくいってない」と考えたこと自体が問題なのであってそれは“良心”に求められているハードルの高さに原因があります。だから、ハードルを低くすると、自分が失敗したと思わないで済むし、怒りも起きないものなのです。
でも、このような認知行動療法が教える「認知の歪み」で事が収束するといった、そんな簡単な作業ではないようです。というのは、この時の患者さんの心が二つにスプリットsplitしているからです。どういうことかと言いますと、“良心”の期待に応じようとする心の部分と、“良心”の期待に応じきれないでいる心の部分とに二分されているということです。そして“良心”の考えが正しいという審判が下るのです。でもよくよく考えてみると、“良心”の求めるものが高すぎるか、あるいは後者の判断が間違っているかもしれません。実際には失敗していないかもしれません。でも“良心”を愛する余り失敗したと幻想するのです。幻想という言葉を使ったのは、うつ病の患者さんは“良心”という対象と合体したい願望をもっているからです。なので、現実の出来事を客観的に見ることができなくなっているのです。
こんな話があります。私の叔母が2月の寒い日に我が家にやって来て、叔母は長い間うつ病を患っていたのですが、炬燵の中に足を入れない私の娘に早く炬燵に当たりなさと催促するのです。娘は当時幼稚園に通っていて寒がりの叔母と違って家の中ではスカートだけで十分なのです。にもかかわらず、叔母は私の娘と一体化して娘も寒かろうと心配しているのです。この一体化はうつ病の患者さんに共通する心理の一つでもあります。
ですので、ただ単純に、ハードルを下げるように勧めても解決にはなりません。それではどうしたらよいでしょうか。私はこのように考えています。一旦は患者さんのいう“良心”に応えきれないでいるという失敗、本当は失敗していないのかも知れませんが、を受け入れましょう。そして、だから自分を責めてうつ気分になっている、のだということを共有します。スプリットしている期待に応じきれないでいる自分を受け入れて、期待に応えようとする努力を言葉にするのです。そうすることによって、“良心”との合体願望とそれが叶わないでいる自分を統合する機会が得られるのではないかと思います。そのはざまで苦しんでいるということを患者さんが気づいたときに自分を責めるという怒りの内向から解放されるのだと考えるのです。
posted by Dr川谷 at 17:41| Comment(0) | 臨床ダイアリー
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