2017年03月27日

臨床ダイアリー15:『鴎外のスプリッティング』

2017.03.27
臨床ダイアリー15:『鴎外のスプリッティング』

T.はじめに

 8年前の日本精神分析学会教育研修セミナーで森鴎外を題材に『Winnicottの本当の自己について』(Winnicottはイギリスの精神分析家)という発表を行ったことがあります。ずいぶん前のことなので埋もれたままになっていましたが、鴎外の生き方は21世紀を生きる私たちにとって考えるヒントを与えてくれそうな気がしますので、再度、ここで取り上げてみることにします。

 侍の子として生まれた鴎外が明治人として生きることは鴎外にとって心が二つに分裂する苦しみでした。鴎外はその狭間を生きる中で『舞姫』を産み、『阿部一族』を世に出したのです。この侍か近代自己かという二者択一の問題は21世紀になってもいたるところで噴出します。例えば、高校野球で球児が快打に塁上でガッツポーズするのは敗者の心を慮らない失礼な行為なのではないか。さらには、大相撲でモンゴル力士の振る舞いは「横綱の品格がない」という非難も、すべて鴎外の分裂した二つの心に源流があるのです。

 今回は鴎外を語ることで「自己のスプリッティング」について話を進めようと思います。まず森鴎外の4編の小説を題材に鴎外の二重生活の苦悩を追ってみたいと思います。

U.森鷗外の4編の小説

 鴎外は1862年2月17日に現島根県津和野町に、森家は代々津和野藩の藩医の家柄です、その長男として鴎外は生まれました。侍の子どもだったので、幼少の頃から論語や孟子やオランダ語を学びます。1872年、10歳で父親と一緒に上京。1873年、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)に入学し1881年に卒業。同年の12月に陸軍軍医として東京陸軍病院に勤務しました。1884年の8月にドイツ留学のために横浜港を出発した鴎外は、1ヵ月半後の10月にベルリンに到着します。この時、鴎外は22歳になっていました。1888年7月に帰国するまでの鴎外の心に起きた出来事はフィクションとして小説になります。

1.『妄想』(1911)49歳

 短編小説の形を借りた鷗外の自叙伝だと言われています。主人公はベルリン留学で「自我」という概念を知ります。当時の欧州では「自我」が無くなることが最大の苦でした。なぜ「自分」が無くなることが苦しみだったかというと、死ぬことを意味したからです。当時のベルリンの知識人にとっては死ぬことは最大の恐怖だったのです。ところが、侍の子として生まれた鷗外にとって、幼い頃より侍は命を主君に預けるように育てられるので、自分が無くなるということに恐怖をもつことはすでに解決済みの問題であったのだと思います。『葉隠』にある「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という一節は広く知れ渡っていますね。侍にとって主君への絶対的な忠誠心と死の覚悟が生きる意味なのです。

 ところが、ベルリンの地では主君よりも「自分」だったのです。それで小説は「自分」という一人称で書かれます。ベルリンの地で自我=「まことの我」という概念を知って、それとは対照的な現在の自分を偽物と感じるようになったのです。

「生まれてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに策うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷齪してゐる」「自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる」「背後に或る物が真の生ではあるまいかと思はれる」

と、意識される「我」の他に「真の我」という存在に直面するのです。

2.『舞姫』(1890)28歳

 この二つの「我」は処女作『舞姫』にも取り上げられ、「我ならぬ我」と「まことの我」という自己の分裂スプリッティンとして描写されます。

「所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の内なにとなく妥ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり」。

 ベルリンで過ごした22歳から26歳の間の苦悩について鴎外は語っています。侍として教育された「我」の他に「真の我」がいたことは鴎外にとって精神的危機でもあり生きなおしの機会でもあったのでしょう。鴎外はこの自己のスプリッティングを生涯の問題として抱えていくことになります。

 主人公は勉学に夢中になれずに恋人エリスに心を奪われていきます。2人は帰国という形で強制的に別れることになるのですが、主人公はその運命に逆らうというより責任を放棄した形で解決するのです。この時、鴎外は「まことの我」を貫けずに「我ならぬ我」に運命を預けたのです。

3.『ヰタ・セクスアリス』(1909)47歳

 私は高校生の頃に受験勉強の暗記ためにこの小説の存在を知りました。手にして読んだのは大学に入ってからのことです。読んでちょっと物足りなかったことを覚えています。

 「まことの我」に気づいた鴎外は、それを性生活の領域にも広げていきます。鴎外は性欲の虎を放し飼いにしてその背に乗る人が自然なのであって、性欲の虎を馴らして抑えておくのは不自然だと言います。性欲という虎を放し飼いにしつつ性欲に溺れないことを上位に置いています。鴎外は国費でベルリンに留学しています。性欲に振り回されて勉学をおろそかにすることは、国を裏切ることになります。しかし性欲を抑圧するために修練するのは不自然だと切り捨てます。思春期の若者の性欲を抑圧するために、武道によって修練するのは広く行われていることなのですが、鴎外はもっとスマートな方法があるのではないかと言っているようにも聞こえます。

4.『かのやうに』(1914)52歳

 そして52歳のときに『かのやうに』を出版します。ファイヒンガーの“Die Philosophie des Als Ob”(かのようにの哲学)をテキストにして鷗外の思想を語ったものです。少しばかり、気になる個所を引用しましょう。

「点と線があるかのやうに考えなくては幾何学はなりたたない。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。そのないものをあるかのやうに考えなくては、倫理は成り立たない」
「人間の智識、学問はさておき、宗教でもなんでも、その根本を調べてみると、事実として証拠立てられないある物を建立している。すなわちかのやうにが土台に横たわっているのだね」
「かのやうにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値あるものは、かのやうにを中心にしている」
「かのやうに」を否定すると「危険思想」だと云われて、それでは到底生きていけない。八方塞がりだと苦悩する。  

 主人公は留学から帰っても一向に働こうとしない、当時の引きこもり青年、「高等遊民」として登場します。働かないのは留学費を出してくれた父親への裏切りです。しかし働くのは「我ならぬ我」なので、鴎外は主人公に「かのやうに」が怖いと告白させるのです。鴎外は主人公に「我ならぬ我」より「まことの我」を殺すのが忍びないと言わせるのです。「まことの我」を殺すくらいなら「高等遊民」の方にまだ価値がある、とさえ言い切るのです。

5.まとめ

 鴎外の苦悩は永遠に解けない二者択一問題です。ベルリン留学では勉学か恋愛か、帰国後は医師(高級官僚)か小説家(三文小説家)か、です。江戸っ子の漱石、漱石はロンドンに留学し帝国大学の教授職を捨てて三文小説家に下った、のように割り切れない鴎外は二足の草鞋を履き続けます。その苦悩は26歳でベルリンから帰って来てから『阿部一族』(1913)を書き上げるまで続くのです。そして、苦悩から解き放された鷗外は『かのやうに』(1914)を書き上げるのです。

 鴎外は「我ならぬ我」の背後に「まことの我」の存在を明らかにしました。25歳の頃のことです。当時は、2人の自分を抱えながら、つまり医師でもあり作家でもある、という二足の草鞋を履いたまま生きていきます。50歳を超えて、ようやく鴎外は2人の自分に決着をつけるのです。裏切り、危険思想だと言われても「まことの我」の方が自分にとって大切なのだと。それを箇条書きに述べると、以下のようになります。

 1.自己分裂を自分の悩みとして抱える覚悟をする
 2.とにかく明治・大正を生きる
   二束の草鞋的生活を続け「かのやうに」を生きる。         
   しかし、それには満足しない。
 3.小説を書く、そして小説の中で生き直す。
 4.辿り着いた地点は
   人間叙述小説を書くことだった。

 こうして見ると、鴎外の一生は、私たちに生きるヒントをあちこちに散りばめているような気がします。歴史小説と言われる鴎外の作品群は「まことの我」の生き様を描いています。  

V.野球はスポーツか武道か

 高校野球児のガッツポーズがなぜいけないのか。モンゴル力士の振る舞いが「横綱としての品格がない」となぜ非難されるのか。単純に負けた相手のことを思い遣るべきではないのか、という批判だけではないようです。勝負事には勝ち人と負け人が出るわけですから、競技・スポーツの世界では「勝利を素直に喜ぶ」ことは自然な流れなのです。しかし、それは野球と大相撲が競技やスポーツであれば許せることなのです。それが「武道」と解釈されると非難されることになるのです。

 武道とスポーツは何が違うのか。武道の精神に「残心」という言葉があります。戦国時代を生き抜いた武士は、江戸時代に入って、人殺しをせずに国を統治するようになりました。人を殺さない武士の多くは武道(剣道)の中に侍として生きる道を見出しました。戦国時代は、敵を殺し、生きて帰るのが武士の生き方です。武士としての名誉を重んじ、臆病・卑怯・裏切りを戒めるのは江戸に入ってからのことです。残心とは、敵を倒したときに油断せずに注意を払っている様子のことを表します。ひょっとしたら敵は重症を負っているかもしれないが、相手を一太刀にする気力だけは残っているかもしれないからです。油断するな、という教えが残心の意味なのです。だから、ヒットを打ってガッツポーズをするのは武道の教えに反する行為なのです。相手のことを慮るという意味は戦後の平和ボケが生んだ解釈なのです。

 だから、スポーツを仕事とするメジャーで活躍する日本選手の多くが侍ジャパン参加を断り、国を背負う純粋侍ジャパンとビジネススポーツ選手という分裂が起きるのです。何か釈然としない問題を私たちに突き付けているような気がしないでもありません。このように武道かスポーツかという二者択一のスプリッティングに行き着くのです。スポーツならガッツポーズは許されます。モンゴル力士の勝ち名乗りも勇ましいと称賛されるのですが、武道となるとそうは問屋が卸しません。この問題はなかなか侮れないので、森鴎外を題材に議論するのは価値あることではないかと思うのです。

posted by Dr川谷 at 11:46| Comment(0) | 日記

2017年03月20日

臨床ダイアリー14:ウィニコット『破綻恐怖』について

臨床ダイアリー14:ウィニコットの『破綻恐怖』について

1.はじめに

 2017年、明けましておめでとうございます。
年末に川谷医院のコマーシャル・ソングを作りました。『文明堂のカステラ』のパクリです。一緒に歌ってください。「発達1番、ボーダーは2番、3時の予約は川谷医院」です。今年もよろしくお願いします。

 エッ、川谷医院は発達障碍も専門にしているのですか、と突っ込まれそうですね。実はこころの発達には多大な関心があって、特にパーソナリティ障碍の病因についてはこれまで専門雑誌や学会などで研究発表を行ってきました。といっても対象となる症例の多くは思春期例や成人例なので、彼らや彼らの家族によって語られた生活史から導き出されたものという研究方法の限界があります。乳児のこころの専門家であるD・スターンの研究方法は直接観察された乳児期の様子observed infantと臨床で語られた乳児の様子clinical infantの二本柱で成立しています。私の研究は前者の直接観察が欠けているのです。それで2017年4月から小児科医と臨床心理士の2人にチームに入ってもらって、子どもの心の発達を観察していこうと計画しています。

 さて、臨床ダイアリー13を掲載してから約5ヶ月が経ってしまいました。この間ハードな毎日が続き、3月11日の日本不安症学会と18日の精神分析セミナーの発表をやっと終えて、臨床ダイアリーの世界に戻ってくることができました。本来であれば、この稿は正月休みの間に完成させる予定のものだったのです(最初の下りでストップしたまま)。今回は、昨年の11月に長崎のPsychoanalysis研究会で講演した「ウィニコットの『破綻恐怖』について」と福岡いのちの電話に投稿したエッセイ「トラウマと記憶について」の合併作です。


2.ウィニコットの『破綻恐怖 Fear of Breakdown』とは?

1)境界性パーソナリティ障碍の研究から

 ウィニコットの論文を紹介する前に私の「破綻恐怖」に関する考えから始めます。それは2013年の日本精神神経学会電子版に発表した内容の繰り返しになるのですが、電子版は専門医でないと閲覧できないので、ここではそのエッセンスだけを述べようと思います。

 電子版の内容は、境界性パーソナリティ障碍(以下、BPD)の多彩な臨床症状は「ボアbore」の防衛によるもの、というのが主題です。これまでの臨床経験から人生最早期、1歳半から3歳までの間に母親とのつながりを失うというトラウマを受けた子どもは茫然自失の状態に陥り、傍目には退屈そうにしている子どもの姿から「ボア」と呼んだのです。

 最初に「ボア」の症例を経験したのは、福岡大学病院で精神分析を学んでいた頃、今から30年以上前のことです。私が受け持ったBPDの患者さんの家族療法を行っていた時に母親から語られました。患者さんは私との週3回の精神分析的精神療法の中で連想が進まず締りのない表情をすることがたびたびありました。当時はその意味が分からなかったのですが、家族療法のなかで母親が「社宅の砂場で遊んでいた子どもが、私が居なくなると、目に力がなくなりボー然と立ち尽くす姿を近所の奥さんから聞いて知った。その姿は小6の修学旅行の記念写真にもそっくり写っていた」と思い出したのです。さらには母親がうつ病を患い、子どもの養育ができないので実家に帰って養生した、ということも明らかになったのです。

 「ボア」は精神分析的には「対象恒常性」の欠如と言われる現象です。BPD患者が母親の不在に上手く対処できないのは、こころの中に内的対象が育っていないからと言われます。例えば、子どもが一人遊びしているときに母親が傍にいないことに気づいたとします。子どもは不安になって泣き出すか、母親を探し出すかするでしょう。しかし、内的対象が育っていると、台所で料理をする包丁やスリッパの音で母親を想い出して、再び遊びに興ずることができるのです。

 同様の患者の状態はウィニコットの『ピグル』にも言及されていたので、私はそれを「ボア」と呼ぶことにしたのです。何故、専門用語である「対象恒常性」という言葉を使わずに、新たに「ボア」という造語を使用するのかと言うと、「対象恒常性」という用語には子どもが母親とのつながりを失ったというトラウマの部分が欠けているからです。それで新たに造語を必要としたのです。

 つながりの切断は以下のようなことが確かめられています。

妹や弟が生れて親戚に預けられた
子どもの変化を母親が認知できなかった
母親の長期入院
母親が精神疾患に罹り養育が困難になった
子どもの負の側面(分離不安)に無関心
キレる母親による情緒的つながり切断

などです。ボアは母親の居ないところで現れるので母親に気づかれることが少なくトラウマの手当てがないまま子どもは成長していきます。そのため、母親の眼前と母親の不在時の子どもの心は互いに交流することなく、スプリットしたまま(正常に機能する心の部分とトラウマを負った心の部分)存在し、状況によってスイッチはオン・オフをくり返すことになるのです。

 このトラウマの記憶部分がDSM−5のBPDの臨床像です。以下に「ボア」の諸特徴を述べます。


@生育史:発達停滞型BPDでは3歳の頃から見られる
  母親が傍にいると元気で普通の子ども
  母親の不在で目に輝きが無くなり、退屈、無気力・・・・
A生理的:過剰睡眠、だるさ、過食⇒非定型うつ病
B精神的:空虚、無気力⇒統合失調症の陰性症状に似る
C行動的:それを打開するための「行動化」
  飲酒、薬物乱用、買い物、過食、万引き、喧嘩、セックス・・・
  精神の高揚(=軽躁状態)の希求⇒双極U型障害との関連
D治療:主体性を求められる精神療法の場では連想の貧弱さが目立つ。
  患者は受身的で黙して何も語れず、主治医の積極的な介入が無いと
  苛立ち、眠気を催す者も出てくる。

 この「ボア」を主治医とともに自分のモノにできるとボーダーライン状態は回復する、というのが私の主張なのです。

2)ウィニコットの「破綻恐怖」について   

 同様のことをウィニコットは「破綻恐怖Fear of Breakdown」と呼んで、「今の苦しみは過去に起きたもの」、つまり大人の破綻恐怖は乳幼児期に起こった破綻にあると説きました。破綻とは、人生最早期の幼児期の母親とのつながりの切断を意味し、映画『2001年宇宙の旅』でHALの策略で宇宙の彼方に追放された宇宙飛行士を想像するとよいでしょう。つまりそれは、自己がまとまりとして成り立っていることの破綻、防衛構築の失敗、防衛構築の下にある想像を絶するような事態、などと多義的な意味を含んでいます。

 ウィニコットは幼児が母親から切り離されたときの苦痛を原初的な苦悩と呼び、そしてその苦悩は自我が処理できないために無意識に放り込まれたまま、過去の時制になりえていない、と主張します。3歳以前の子どもの脳は前頭葉が未熟なために、自分に起きた出来事は消化されないままこころの奥にしまわれているだけなのです。言い換えると、記憶の書き換え(更新)が行われないので、当時の記憶のまま保存されているのです。勿論、3歳以前のトラウマを言葉で想起することできません。

 しかしそれは、こころの発達の綻びとして現れます。先に説明しました対象恒常性の欠如、対人関係における基本的信頼感の欠如、うまく説明できない衝動的な行動化、内的罪悪感(「私は悪い子」空想)、「怖い、怖い」という原因と対象の分からない恐怖、心にぽっかり穴が開いた感じ、何をやっても楽しめず、幼い頃から「死」の観念に取りつかれる、などなどです。

 ウィニコットは破綻恐怖を過去の時制にするために患者がトラウマの時期まで退行して「生きなおす」ことを主張しました。この際の退行という使い方は直線的な心の発達を前提に使っているので、トラウマを被った時の記憶部分(対象関係)が主治医との間に再現したときと記述した方がより正確です。

 ウィニコットは原初的な苦悩(=幼児が母親から切り離されたときの苦悩)として以下のようなこころの綻びを列挙しています。

1.まだ統合されていない状態への逆行(防衛:解体)
2.落ち続けること(防衛:自分で自分を抱え込むこと)
3.心身共動の消失、身体に宿ることの失敗(防衛:離人)
4.現実感の消失(防衛:一時的ナルシシズムの利用、他)
5.対象と関係する能力の消失(防衛:自閉的状態、自己の現象とのみ関係すること)

 すでに体験された破綻恐怖は原初的苦悩に対する恐怖でもあり、患者に「破綻はすでに起こってしまっている」と言う必要があるときがある、とウィニコットは説きます。こころの綻びは、死の恐怖、空虚(自分を生きていない)、などとして現れ、その治療はパーソナリティ構造の再構築、つまり「生きなおし」にあると述べたのです。


3.「トラウマと記憶」について

 「生きなおし」とは、私の精神科治療の主眼にしているものです。それを脳科学的に説明したのが、福岡いのちの電話の広報誌に寄稿した「トラウマと記憶」というエッセイです。私のこころのクセとして加筆・修正された改訂版になっています。

 日々の精神科臨床で「どうして話をすることで私の病気が治るのですか?」と訊ねられることが時々あります。なぜ人は対話による治療―命の電話もそうですね―で心の立て直しが可能になるのでしょうか。答えは幾つも考えられます。カタルシス効果、共感や理解による孤独感の癒し、他者に対する信頼感の回復、自己理解の深化・・・etc。

 私の専門とする精神分析は「記憶を扱う治療法」です。つまり、治療が成功するかどうかは、過去を現在にどうやって再現させるかにかかっています。その治療工夫として精神分析を編み出したフロイトは、患者さんをカウチ(寝椅子)に横臥させて自由連想をさせるという50分の面接を週に6日間行ったのです。横になって何も考えずに、ただこころに浮かぶことを言葉にして報告しているといろんな過去が浮かび上がってくることにフロイトは気づいたのです。精神分析では過去の記憶が現在の治療関係に再現(専門的には“転移”と呼びます)され分析家の解釈や分析家との情緒体験によって書き換えられるのです。これが「生きなおし」の第一歩です。

 1972年にノーベル医学生理学賞を受賞したエデルマンによると「長期記憶は体験のカテゴリーからなり、活性化されるのを待ち受けている」といいます。同窓会などで古びた記憶が仲間と語り合っているうちに色鮮やかに蘇り、新たな命を吹き込まれることがあります。また、鏡に映る自分の顔を見て私の顔の記憶は反対像として日々更新されて保存されます。もし7歳のときに視力を失ったとすると、それ以降の記憶は更新されないので、永遠に自分の顔は7歳のときのままです。それが医学の進歩によって視力を回復したと仮定すると、鏡に映る顔は私ではない、というSF小説が書けますね。

 ところが、それとは反対の現象も起きるのです。記憶が書き換えられないだけではなく悲惨なトラウマの記憶が強化されることがあるのです。特にパーソナリティ障碍(以下、PD)の臨床において患者は過去のトラウマ体験をさらに強化するようなセラピストとの関係を反復強迫する傾向があるのです。

 PD患者は同化されていないトラウマ体験を変換させて自分のものにできないで苦しんでいると言い換えることができます。分析家のモーデルによると「過去の記憶が現在の知覚を支配し意味するものを多大に狭めている」というのです。以下のような場面を想像してください。虐待を受けた経験をもつAは、人の好いカウンセラーBに出会ったとしても、Bを加害者に仕立てて見てしまいがちなので、Bもなかなか心を開かないAの様子にしびれを切らして、ついそっけない行動に出てしまうということが起きる危険性があるのです。それどころか、Bに加害者と同じような振る舞いをさせようというプレッシャーをかけることさえあるのです。つまりトラウマ体験を強化させていく反復強迫が起きるのです(反復強迫は臨床ダイアリー「トラウマと反復強迫」で取り上げていますのでここで説明は省略します)。

 その瞬間にBがいつもの自分らしくない振舞いをさせられようというプレッシャーに気づくと新しい始まりnew beginningの訪れがあるのです。すると、トラウマの記憶の再強化は起こらずに、新しい体験をAとの間に展開させることができるのです。いのちの電話で相談者の話に傾聴しているときに、傾聴するという基本的な姿勢を維持できなくなって、助言したり、ときには励ましたり、あるときは突っ込みを入れすぎたり、常識的な意見を強調したり、するときに相談者からのプレッシャーに注意を向けていると、相談者との関係にある変化が起きるのです。A の過去のトラウマの記憶がBに物語られ、記憶は書き換えられてAは立ち直っていくのです。この稿は記憶の更新が「生きなおし」というのが狙いです。


4.さいごに

 本稿は1月初旬にアップロードする予定が2カ月以上も延び延びになってしまいました。記憶には言葉で思い出される長期記憶と思い出せない長期記憶があります。特に、後者は3歳以前の幼児期のトラウマがこころの綻びとして生涯に亘って苦悩の原因になることがあります。パーソナリティ障碍の患者さんの苦悩はまさにそれが原因になって、3歳以降の二次的障害が重なって、さらに性格が病んでパーソナリティ障碍化が起きると私は思っております。発達障碍では何が原因になっているのか、直接観察を重ねながら研究していきたいと思っています。

posted by Dr川谷 at 11:39| Comment(0) | 日記