2016年05月23日

臨床ダイアリー6:「泣くのは私が弱いからですか」

臨床ダイアリー6
2016.05.22(日曜日)『泣くのは私が弱いからですか?』
T.はじめに
 川谷医院に通院している患者さんたちにこの臨床ダイアリーを読んで貰いました。多くの方から「内容が難しい」「長すぎて一気に読み終えない」という感想をいただきました。それで今回は、原稿用紙10枚以内で終わるショート・エッセイにしました。タイトルは、ある患者さんから診察時に『泣くのは私が弱いからですか?』と質問された経験が元ネタになっています。
 この問いは、現代人にとってとても大切なものを含んでいるように思います。というのは、泣くという行為を「良い」か「悪い」に二分する思考過程からは何も生まれないからです。つまり、「泣く」=弱いと単純に割り切ろうとする現代人の考え方に重要な問題があるような気がします。泣く=こころが弱いという思考過程は、患者さんと彼/彼女を取り巻く人たちの両方にとって不幸なのです。何故なら、二人の間には何も生まれないからです。
 もし泣いている患者さんの話を聞いて、あるいは泣くという行為から彼/彼女の心を想像して貰い泣きしたとします。すると、そこには心の交流が発生します。二分法では決して起きない、何かが生まれる可能性空間が生成された瞬間です。だから問題にしたいのです。
U.オペラ『蝶々夫人』を観て
 今日の午後はプッチーニ作曲『蝶々夫人』を鑑賞しました。1986年にミラノ・スカラ座で上演された演出:浅利慶太、衣装:森英恵、照明:吉井澄夫という豪華版のDVDです。演出もよし、衣装もよし、そして照明が素晴らしい。私の中ではこれまで見た『蝶々夫人』のベスト1位です。蝶々夫人を外国人ではなく林康子さんが演じたのも違和感がなくてよかった。贅沢を言うなら、スズキを演じた田中路子に蝶々夫人を演じさせたかったですね。
 このオペラを観ているときに「泣くのは私が弱いからですか」と問われたことを思い出したのです。DVDでは涙することはなかったのですが、それに近いようなカタルシス効果を覚えました。オペラの劇中では泣くことは美しいシーンの一つです。劇場ですすり泣きしている人を見て、感動できる感受性を恨めしく思うことはあっても否定することはない。男性であれば「涙腺が緩んだ」と言い訳することはあるでしょうが、決して「悪い」と批判するひとはいない。
 患者さんの質問は『オペラ』に感動して泣いているのではない、と突っ込みたくなるでしょうが、今しばらく「泣く」ことについて時間を割かせてください。泣いている子どもを揶揄することはあります。でも決して「泣くな」と怒ったりはしませんね。子どもは泣く存在だからです。子どもの頃、私の姪は兄の甥と喧嘩すると、気の弱い兄に向って「泣け」と言って甥を泣かしていました。この場合の「泣く」は喧嘩に負けたことを意味します。いろんな「泣く」があります。
 1.『日常臨床語辞典』のなかの「泣かれる」
 須賀先生によると人が「泣く」には三つの誘因があります。痛みや衝撃といった身体的な誘因、悲しみや怒りといった感情的な誘因、そして感動や敬虔さといった精神的な誘因の三つです。この三つの誘因に、「内的な降伏」という特有な契機が重なって「泣く」という行為が生れるという。そして文化論に移り、「成人した男性がなくことは、むしろ『女々しい』こととされる」と続きます。
 男性が泣くのは女々しいとよく言います。ところが、『源氏物語』を読んでみてください。成人した男性がよく泣くんですよ。源氏物語の一巻「桐壺」から泣くシーンが出てきます。それを林望謹訳『源氏物語』の桐壺の巻から引用します。
 最愛の更衣との別れのシーンで、帝は「あれやこれやと泣きながら約束などなさろうとするけれど・・・・」とあります。次いで、若君(後の光源氏)を里に出す際にも「父帝も絶えず涙を流しておられる・・・・」と昔の日本人男性は女々しいのが普通だったのです。すぐに袖を涙で濡らします。歌舞伎を観ても、文楽を観ても、劇中の日本人はよく泣く。「泣き虫なまいき石川啄木」とも言います。石川啄木は明治の人です。まだこの頃までは日本人は泣いています。
 2.日本人は明治から泣かなくなった
 2011年3月の大震災で「なぜ日本人は泣かないんだ」という韓国人による疑問がネットを中心に話題を呼びました。ホントに日本人は泣かなくなった。何時頃からでしょうか。確か、柳田國男がこの疑問に答えています。手元に資料がないので、古い記憶を頼りに書きますが、日本人が泣かなくなったのは明治に始まった学校教育の方針によるものだったようです。明治になって欧州を手本にして騎士精神を輸入したときに始まるそうです。
 明治の学校教育によって「泣く」ことはいけないことという考え方が吹き込まれ、もともと辛抱強い日本人ですから、泣かない日本人が生れたというのが柳田國男の説です。これは本当かもしれないですね。幼い頃から、泣くな、メソメソするなと叱られつづけるわけですから、ちょっとやそっとでは泣かない子どもに成長します。でも、明治の頃は、大人はまだ泣いていました。夏目漱石が留学したロンドンで毎日泣いて暮らしているのを不憫に思ってか、下宿屋の女将さんは漱石に自転車をあげて、外に出したというエピソードがあります。大人になってメソメソ泣く日本人を見てイギリス夫人もさぞびっくりしたでしょうね。日本だったら普通のことだったのでしょうけど。
 落語、浪花節、浄瑠璃などの演芸ものでは作中の日本人は泣くのが普通で、それを楽しむ日本人も泣いて鼻水を垂らしていたのです。それが普通のことだったのです。しかし、日露戦争に勝ち、第二次世界大戦へと驀進し続けるころには泣かない日本人が形成されていったのです。大泣きしない、メソメソしないしない日本人が登場するようになったのです。
V.「泣くのは私が弱いからですか」について
 さて、本題に入る準備が整いました。昔の日本人は泣くことをいけないこととは考えなかった。むしろ泣くことでストレスを発散し、貰い泣きする周囲と一体感を得ていたのです。それが、明治に入って否定されて、21世紀の日本人にとって「泣く」ことは否定されるようになったのです。幼子がバスや飛行機の中で「泣く」と、それを迷惑がる大人が出てくるようになったのも泣くことを否定する現象の一つです。昔だったら泣く子を包み込む大らかな雰囲気があったのですから。東京都知事の舛添さんみたいな小さい、セコイ大人が増えたのです。
 私に質問をくれた患者さんは人生のあちこちで普通に生きていけない生き辛さを抱えています。アルバイトでうまく立ち振る舞えなくて、泣くのを我慢しながら帰ったのです。そして家に着いて感情があふれ出して泣きだしたのです。それを母親に咎められ、「泣くのは私が弱いからですか」という問いへとなったのだと想像します。人生に失敗して、泣いたことを咎められ、これでは泣きっ面に蜂です。
 「泣く」ことを否定する文化で育った現代の日本人には鬱積する感情を発散する術はありません。泣いてもいいんですよ、と気持ちを汲んでも、泣くことを否定されている現代人にとっては意味が通用しません。お母さんの応対が悪いと否定しているように受け取られ、ますます患者さんは苦しくなるだけだからです。ここは、泣くか泣かぬか、弱いか強いか、という二分する思考過程を何とかしないといけない。この間(あいだ)に楔を打ち込まねばならないのです。
 その時に感じていた思いや感情はどんなものだったのでしょう。その思いや感情を言葉にしないでいるとどうなるのでしょうか。ストレス状態が続くと病気になります。心身症を病んでいる人に特徴的なのはアレキシチミアAlexithymiaという状態です。心のなかに起きている感情を言葉にできない状態のことです。その感情は出口を塞がれて脳の視床下部というところで渦巻いて、終には、自律神経失調症やうつ病を発生させるのです。
 ですので、この渦巻く感情や思いを言葉にすることが大切になるのです。そして「泣くのは私が弱いからですか」という問いに、否定も肯定もしないことが重要なのです。二分法にたいして直接的に介入すると、つまり良いか悪いかと反応することは二分法を強化するだけだからです。「泣く」ことは弱いことではないと対応すると、いいえ母親は弱いと言います。母親の意見は絶対です。逆に、「泣くのは強い」と言えない。「泣く」ことを否定された現代人にとって「泣くことは強い」ということは嘘ごとになるので、口が裂けても言えない。口出しするとそんなことはないと否定され、口出ししないとますます「泣く私は弱い」となるので、いずれにしても二分法を脱することは不可能なのです。
 その時に二分法の思考に楔を打つことが求められます。これをウィニコットは可能性空間の生成と呼びました。私流に申しますと、心の中に鬱積し、脳の視床下部で渦巻いている感情を開放する場をつくるのです。それはどうやってするのか知りたいですね。「泣くのは私が弱いからですか」という問いに直接答えることを控えて、先ずは沈黙の場を作るのです。この間(マ)が感情の復活に必要なのです。間ができたら、どんな思いをしているのかを聞き出すようにします。物語る前に感情を取り上げるのです。その次に、物語を語らせると、もはや感情は鬱積することなく解放されるのです。私に質問してくれた患者さんのお母さんに「辛かったね」という一言が生まれていたら、患者さんはきっと救われたと思います。
 W.さいごに
 如何でしたでしょうか。今日は「泣く」ことを否定された現代人の不幸について考えてきました。そこにはAlexithymiaという心身症の病因となる状態を作り出す思考過程が潜んでいます。それを私は二分法と記してきました。別の言い方をすると、スプリッティングsplittingとも呼びます。このスプリッティングについては何れ紹介したいと思っています。
 感情を抑えると碌なことは起きません。しかし、それをそのまま「泣く」という行為で発散することも現代の日本人にとってはできないので、感情は鬱積し病気をつくる原因となるのです。そこから回復する道について述べてきました。できれば、皆さんが子どもを授かって子育てするときに参考にしていただけるととても嬉しいし、子育てが終わった人たちにとっては病気にならないように感情を大切にする気持ちを育ててもらいたいと願っています。
 感情はおさえるのではなくて表現するものです。つまり、表(オモテ)に出すことなのです。赤ん坊であれば「泣く」ことだし、子どもにとっては泣きながら喋ることになります。大人であればどんな感情や思いを体験しているのかを探る過程が大切になります。

参考文献
1.北山修監修・妙木浩之編『日常臨床語辞典』.誠信書房、2006.
posted by Dr川谷 at 09:28| Comment(0) | 臨床ダイアリー

2016年05月04日

“静かなるBPD”と社交不安症

2016.05.04(水曜日)『“静かなるBPD”と社交不安症』
T.はじめに
 皆さんは境界性パーソナリティ障害(以下、BPDと称します)という病名をご存知でしょうか?日本では1960年代後半から境界例という病名で精神科医の衆目を集めてきました(詳しくは精神科読本シリーズ15『境界性パーソナリティ障害』を参照して下さい。川谷医院のホームページの精神医療相談室からアクセスできます)。当時の境界例は精神療法を得意とする精神分析医を中心に治療されていました。しかし、彼らに精神分析を施すと、情緒不安定で治療も長続きしません。それどころか、治療を受けている間は大量服薬や自傷行為そして近しい人に対する暴力がひどく、入院治療も長期化し治療は困難を極めました。
 アメリカでは1934年の報告以来、精神分析医を中心に境界例の研究は進み、1980年にアメリカ精神医学会が出版した『DSM―V』で単一疾患として登場しました。パーソナリティが病んでいるという新しい臨床像に日本の精神科医は最初疑心暗鬼でした。ある国立大学の某精神科教授は退官するまでBPDと診断することを拒み続けていましたが、次第に日本精神神経学会でもシンポジウムに組み込まれるようになって、見過ごすことができなくなっていきました。
 私も1990年5月鹿児島で開催された第86回日本精神神経学会のシンポジウム『境界例の病理と治療』で『福岡大学病院における境界例診断の変遷と治療について』というタイトルで発表したことがあります。境界例には2つのタイプがあって、DSM−Vで登場した境界性パーソナリティ障害が年々増加しているという内容です。そのとき、福岡大学病院精神科を受診された境界例を疑われる1169名のカルテから108名の境界例を抽出し、牛島定信先生はじめ10人の共同研究者とともにその診断の変遷と治療内容、そして生活史の特徴を描き出しました。その経験が今日の私の「パーソナリティ発達」の研究への土台になったのだと思います。
 今日、取り上げる内容は、精神科クリニックを受診する患者さんの中に“静かなる”と形容したいBPDの患者さんが増えてきているという精神科クリニックの現在を分析することから始めて、そのパーソナリティ発達を追ってみたいと思います。そしてそのパーソナリティ構造を明らかにしながら、治療の困難性と将来の治療のあり方などについて、成長してBPDにならないためにはどのような養育環境が望ましいのかという含みを持たせつつ、述べていこうと思います。
U.治療の難しい“静かなるBPD”の登場
 “静かなるBPD”という言葉は“荒々しいBPD”に対立させてつくった私の造語です。3、4年前に後輩の精神科医に「BPDは少なくなったのではないですか?以前のように受診してきませんね」と問われたことがきっかけになりました。そのとき、「いやー、精神科医の技量を見限って受診を控えているだけで、裾野は広いんじゃない。でも確かに行動化の激しいBPDは少なくなった印象はあるね。その代りに“静かなるBPD”と呼んだらいいのかな。内的にはしんどい問題を抱えながらも華々しい行動化は少ない人たちが以前よりまして受診してくるよ」と返答したことを覚えています。
 1.“荒々しいBPD”は本当に少なくなっているのか?
 この臨床感覚は間違っていないと思って、今年の6月の日本精神神経学会では「荒々しいBPDは減って静かなるBPDが増えてきている」という報告をしようと計画していたのです。しかし、この1か月間の川谷医院を受診された患者さんの診断を見ると、行動化の華々しい“荒々しいBPD”の患者さんは少なくなってはいなかったのです。むしろ増加していました。というのは、今年の4月から杉本先生が私たちの仲間になってくれて新来患者さんを一人も断らずに診てもらった結果、“荒々しいBPD”も“静かなるBPD”の両方とも受診者数は増えたのです。
 一人で仕事をやっていた時は1週間に診れる新来患者数に限界がありました。それで予約の時点でお断りしていたケースも多かったようです。4月から杉本先生も積極的に新来患者を引き受けてくれました。その結果、“荒々しいBPD”は減少していないことが判明したのです。
 2.BPDの治療ガイドライン
 それでも10数年前の“荒々しいBPD”の患者さんは少なくなったような気がしてならないのです。それはどういうことかと言いますと、恐らくBPDを専門に治療される精神科医の治療技術が向上したことによって以前のような不安定な治療過程(対人関係の不安定さや自己破壊的な行動化など)が少なくなり、その分だけ荒々しさが少なくなったような印象をもつようになったのではないかと思うのです。二つ目にBPDを特徴づける「見捨てられ不安」を巡る諸問題、つまりそこから生じる不安定な対人関係よりも対人関係を避けようとする“静かなるBPD”が登場してきているのも見逃せません。それだけに全体的にBPDの不安定さが小さくなったような気がするのです。
 私たちのBPD治療の技術向上は、2002年4月からスタートした「治療ガイドライン作成」のための厚生労働省の班研究(通称:牛島班)によるものが大きいでしょう。その成果は2008年に金剛出版社から牛島定信【編】『境界性パーソナリティ障害〈日本版治療ガイドライン〉』として出版されました。その内容はBPDの治療の場を入院から外来へと移し、内的問題の解決から社会適応を促していこうとする極めて現実的な対応へとパラダイムが変わりました。(私の論文も「境界性パーソナリティ障害の外来治療―クリニックにおける境界患者の治療の現状と問題点―」というタイトルで掲載されています)。
 その大きな変更を牛島先生は次のように述べています。BPDの外来治療の進め方は、精神科医が主治医として責任をもち、@外来において現実的な生活面での相談に乗り、支援することを中心に、A必要あれば投薬を行ない、B入院させ、家族支援を行なう、Cさらには有用であればデイケアや個人精神療法を行なう治療システムを構築する。精神分析を生業にしていない精神科医でも一般精神科クリニックの保険診療の枠の中で治療が可能だという主張でもあります。
 私の臨床経験では、“荒々しいBPD”にも発達停滞型と退行型の2型があって、退行型BPDの場合はAまでの治療システムの構築で十分な効果が得られます。発達停滞型BPDの場合は、治療の流れによってはB〜Cの治療システムを柔軟に構築していくことが治療の要になります。入院治療も退行型BPDでは危機介入の短期間で済み、発達停滞型BPDの場合はパーソナリティ改築のための長期間を要することが多い、という違いが見られます。そして、状態が改善した後には社会適応の援助と「臆病な自尊心」の生きなおしと「ボア」の克服に焦点が置かれると考えています。臨床ダイアリー『トラウマと反復強迫』の中で述べましたように、“荒々しいBPD”の治療をトラウマ論という視点から行うことによって治療に手応えを感じています。その治療経験から川谷医院では主治医と臨床心理士とペアで行うATスプリット治療や就労支援A型施設『ドンマイ』での就労を行っています。
 3.“静かなるBPD”とは?
 さて、“静かなるBPD”に話を移しましょう。今日では波乱含みの“荒々しいBPD”の治療がクリニックを中心に可能になってきました。しかも長期的な入院治療も減少し自殺者も少なくなりました。アメリカ精神医学会の報告ではBPDの自殺率はうつ病と同じく約10%と高い値です。巷では治らないと匙を投げられていたBPDの治療が今日では取り組みやすくなったという声をしばしば耳にするようにもなっています。
 患者さんやご家族から「治りますか?」と訊ねられて「治りますよ」と返事していたのに、慢心してはいけないという天の声なのでしょうか、新たに治療の難しい“静かなるBPD”が出現するようになったのがBPD治療の現在です。それは“荒々しいBPD”の治療困難性とは大きな違いが見られます。前者は治療関係がなかなか深まらないために表面的な症状の改善、一見すると良くなったかのように見えます、とともに治療を去っていくのでパーソナリティ構造の再構築の治療過程が置き去りにされたままになるので治療が難しいのです。“荒々しいBPD”では繰り返される衝動的で自己破壊的な行動や近しい人たちへの攻撃といった表に現れる華々しい行動化のために巻き込まれた周囲の人たちが医療機関への受診を促すのとは反対に、“静かなるBPD”では周囲を巻き込むことは少なく、傍の者には症状が外に現れないために良くなったと安心してしまうのです。それは主治医との関係でも繰り返されます。“静かなるBPD”の患者さんは表に現れた症状が影を潜めると主治医との治療を避けてしまうのです。残された私たちには現実生活で困って再び受診される日を待つしかないのです。
 4.“静かなるBPD”のパーソナリティ発達を見る
 彼らはどうして内的には変化が見られないのに外に現れる症状が軽快すると治療を止めてしまうのでしょうか?私のこころの癖でその理由を確かめたくなりました。再度、“静かなるBPD”と診断されたカルテを読み直してみました。その特徴はある現実状況では外面的には普通の健康な人たちと何ら変わらないパーソナリティ部分と内的には病的なパーソナリティ部分が互いに行き来することなく共存していることです。前者を「偽りの自己」と呼んでもいいでしょう。それではどうしてこのようなパーソナリティ発達が起きたのかを考えてみたいと思います。
 その生い立ちをご両親(主に母親)やご本人に訊ねますと、圧倒的に手のかからないよい子が多いのです。しかし、一部のBPDに特徴的な「偽りの自己」と呼ばれる患者さんは家庭外でも同様に「偽りの自己」で押し通しています。ところが、“静かなるBPD”の患者さんの場合、家庭外ではどうでしたかと訊ねますと、内気で恥ずかしがり屋さんだったと声を揃えて答えるのです。さらに、内弁慶、八方美人と自己分析される患者さんも少なくありません。性格的に人前で緊張するあがり性だったので、幼稚園・保育園で人前でのパフォーマンス(ダンスや行事)が苦手だったと報告する人も多くいます。中には人前で字を書くのを見られるのが嫌だったと振り返る患者さんもいました。一方家庭では、よく気がつく、明るい元気な子どもという印象を親は持っています。中には「お兄ちゃんが育てにくい子でこの子は全く心配をかけない子どもでした。それに甘えた私ががいけなかったのではないでしょうか」と振り返るお母さんもいました。
 次に、彼らの育った家庭環境を見てみました。お世辞にも決して良い家庭環境とは言えません。お父さんが大変なお酒飲みで家庭の中は緊張に満ちていた、夫婦仲が悪く喧嘩が絶えなかった、両親が離婚した、お母さんが情緒不安定で逆ギレしやすい人であった、お母さんが文字通りに反応する人だった、という“荒々しいBPD”に見られる家庭環境と同じものでした。
 同じ手のかからない良い子と言っても、“荒々しいBPD”と異なって“静かなるBPD”の患者さんは家庭の内と外で異なる2つの顔を持ちながら生活を続けていきます。お母さんが夫婦問題のために子どもの家庭外での様子に気がつかなかったケースもありました。でも圧倒的に多かったのは、母親との緊張した雰囲気を感じ取って、心配させないようにお利口さんであることを役割として育てていく患者さんたちでした。ひと昔前は、“Good Child”と呼ばれていましたが、周囲の期待を読んでそれに合わせていく対人パターンは成長過程で身につける対人関係能力であって、2歳の頃から特徴の一つになるのはやはり病的です。
 “静かなるBPD”の患者さんは家では手のかからないよい子なんですが、学校での友達関係は必ずしもうまくいってません。彼らのほとんどが、10歳前後の自我の芽生えの頃から仲間外れにあう、いじめの対象になる、嫌われないように緊張し過ぎる、などといった不安と抑うつ状況に襲われているのです。そして、いつしか家庭の内と外で異なる顔を持つようになるのです。家庭では母親の顔色を瞬時によく読む良い子なはずだったのに、いじめの対象になるのはどうしたことでしょうか。聞きますと親密な関係を築くのが苦手で「深い関係にならないようにしてきた」と自己分析します。「決して私は良い子ではない」と目を伏せてつぶやく人もいました。この時期は他者の目を通して自己を振り返る能力が開花します。すなわち客観的に自分を見つめるようになるのです。このことは精神科読本シリーズ15『境界性パーソナリティ障害』のなかで小学生の心の発達として詳しく述べていますが、この頃のいじめや仲間外れは子どもたちにとってかなり手痛いトラウマになって劣等感、自己評価の低さ、恥の感覚に悩まされるようになるのです。
 5.“静かなるBPD”の発症
 そして中学生になって対人緊張を強く感じるようになって社交不安症と診断がつくような精神状態に追い込まれ、その多くは高校生になって精神科や心療内科のクリニックに通院し始めるのです。(社交不安症については精神科読本シリーズ17『社交不安症』に詳しく述べています。)その苦しみを「人から自分がどう見られているのか怖い。拒絶されるのではないかと緊張してしまう。なので皆から一人私だけ浮いてしまっている。人とは距離をとって、自分の思いは口にしないようにしている」と語った人がいました。頭痛や吐き気などの身体症状を伴っていることが多く、最初に小児科・内科を受診される人が少なくありません。当然、不登校や高校中退を余儀なくされます。通信制高校をやっとの思いで卒業するなど社会達成度も低く、大人社会で生きていく社会適応能力も身につかないまま思春期を生きていくのです。主観的には、高校生の頃から自分がよく分からないといった不安、自責感の強い抑うつ、慢性の空虚感が支配的になり、空しさを打ち消すために自傷行為や大量服薬といった自己破壊的行動が時折見られるようになります。そのことにお母さんが気づいても“荒々しいBPD”と違って「心配ない」と明るく笑うので、お母さんもそれ以上踏み込むことをためらってしまいます。“荒々しいBPD”のように他者を巻き込むようになるのは生活が破綻した時に限られるのです。
 そして進学や就職といったアイデンティティを問われる状況で混乱が大きくなり、親には秘密にすることが多いのですが、ストレス下で解離状態を呈するようになる人も現れます。さらに、どう生きていってよいか分からなくなり、対人関係も希薄で空虚感を埋め合わせるかのように多数の異性と性関係もつなど、いよいよ混乱も大きくなって大量服薬などの自殺企図が勃発してBPDの特徴が表に現れていくのです。
 6.“荒々しいBPD”との違い
 “荒々しいBPD”との一番の違いはパーソナリティ機能の中の対人関係領域に現れます。“静かなるBPD”では対人関係を回避する傾向が強く、親密な関係を気づくのを避けています。一方、“荒々しいBPD”では山嵐ジレンマと呼ばれる不安定な対人関係が特徴で「見捨てられ不安」に支配されています。一人でいるのは空しく、自分を支えきれないために人を求めるのですが、一緒にいると相手から見捨てられるのではないかと極度の不安に襲われしがみつくと同時に相手が自分を見捨てようとしているという信念のもとに怒りが爆発して関係を壊してしまう。一人になるのも怖い、かといって誰かと一緒にいることもできない、というジレンマに振り回されるのが“荒々しいBPD”の特徴です。
 一方、“静かなるBPD”では見捨てられ不安は小さく、むしろ日本人に特徴的な「他人から良く思われたい。嫌われたくない」という心性が強い。だから、主治医との関係も“荒々しいBPD”のように不安定になることは少なく、関係が深まらないように一定の距離を保ち続けていくのです。彼らは対人関係に非常に臆病なのです。それだけに思春期を通して他者とぶつかり合って他者を通して自分を見るという客観性を育てることに失敗し、現実の一部を切り取り主観的に見てしまう傾向が優位になるのです。それはときに信念とよんでもいいような生き方にもつながっていくのです。
V.“静かなるBPD”の精神科治療
 新しくなったDSM−5を下に“静かなるBPD”と“荒々しいBPD”の病理の違いについて説明しましょう。最も大きな違いはA項目のパーソナリティ機能の対人関係領域に現れます。前者は親密な関係を避ける傾向が強いのに対して、後者では激しく不安定な関係が特徴です。B項目の病的パーソナリティ特性の領域では、前者では後者に特徴的な敵意(対立の一側面)が満たされない点にあります。これらの違いを踏まえて“静かなるBPD”の精神科治療について考えてみたいと思います。
 最初に、“静かなるBPD”の治療可能性についてパーソナリティ発達の観点から見てみましょう。第一に気質的には社交不安症にかかりやすい潜在的傾向として行動抑制と否定的評価に対する恐怖を持っていることが挙げられます。第二にその危険要因として緊張に富んだ家庭環境が挙げられます。第三にその二つが縄を編むように複雑に絡みながら、家の内では手のかからない良い子ですが家の外では社交不安症のために親密な関係を築けないといったスプリットしたパーソナリティ発達が進むということが問題になってきます。そして思春期に他者とぶつかり合うことを避けた生き方のために主観的判断に偏り過ぎるパーソナリティ構造を発達させ、大人になるために欠かせない弁証法的緊張関係を経験しないまま成長し、アイデンティティを問われたときにBPDを発症するのです。
 私は“静かなるBPD”の治療は治療関係が進展しないので難しいと述べてきました。治療関係が樹立しないので当然と言えば当然の結果でもあります。このまま臍をかんでばかりでは埒があかないので、何とか治療の手立てを考えなければなりません。
 かつて日本では「対人恐怖症」に苦しむ青年が精神科をよく受診していました。中でも不安・緊張が身体に現れ、顔が真っ赤になるのを恐れるのを「赤面恐怖症」と呼びました。今でも症状によよって自己視線恐怖症、会食恐怖症と呼ばれる対人恐怖症に苦しむ青年がいます。いずれも「ヒトから自分がどう思われているか」という他者の評価を過度に心配していますので、DSM−5の社交不安症の診断基準を満たしています。
 対人恐怖症の治療を編み出したのは東京慈恵会医科大学の森田正馬先生です。かつて九州では森田療法は九州大学病院で盛んに行われていました。私も医学生の頃に森田療法を独自に学んだのですが、治療者と患者が居住を共にするという治療形態に息苦しさを覚え精神分析へ方向転換した思い出があります。でも、その時に学んだことは今でも私の治療者としての資質に影響を与えているようです。DSM−5の社交不安症を離れて、一度日本の文化とリンクして考えてみたら、その治療のヒントが見つかるのではないかと思うのです。
 ここまで述べてきて、ふと不安になりました。日本の対人恐怖症の患者さんは向上心が高く、何としてでもこの辛い対人恐怖症を克服したいと理想に燃えている患者さんが多いのに比べて、“静かなるBPD”の患者さんはそれほど治療に期待しません。かつて社交の場が苦手な主婦の方が、子どもが大きくなってPTAや子供会に参加しなければならなくなり、治療に通ってこられました。私はSSRIを投与しながら対人恐怖の心理に共感と理解を示しサポートしていきました。ところが数年に及ぶ治療を振り返りますと、彼女も背に腹を変えられない状況に追い込まれた末に通院を続けたわけであって自ら自分を変えようという意識には乏しかったのです。できれば、子供が成長した後は、対人接触の少ないパート勤務で主婦生活を終えたいと希望されていました。
 社交不安症をもつ“静かなるBPD”の患者さんも治療に求めるのは症状の軽減であって、親密な関係を求めないパーソナリティ構造の改築ではないと想像します。困りました。堂々巡りの負のスパイラル思考に陥っています。明日からの治療のヒントになるような知恵が浮かんできません。どうしたら彼らの治療意欲と治療継続率を高めてパーソナリティ構造の改築への治療を進めていったらよいのだろうか。彼らの気質の部分は恐らく変わらないでしょう。でも、親子関係で起きたトラウマの影響は少なくすることができるかもしれない。加えて、思春期に体験するパーソナリティ発達に欠かせない他者とのぶつかり合いの重要性に目を向けさせることも可能かもしれない。そしてそのぶつかり合いを避けたがために現実を主観的に判断し客観的に見ることが難しいパーソナリティ構造には変化を与えることもできるかもしれない。
 想像するに、親密な関係は避けたくても、それでは自分の存在は希薄で確かめられないという切迫した焦りは感じているかもしれない。この焦りを手掛かりに治療を進めることは可能だと思うのですが、治療の中でこころの内を吐露するような主治医との親密な関係は避けいたので、やはり治療に通うのが負担になるという矛盾・葛藤が生じるはずです。この時にスプリッティング機制を扱うことで治療継続は保たれるかもしれません。臨床ダイアリー『新型うつ病について』で展開しましたように、スプリッティング機制が働いていると、治療の内と治療の外では患者さんの意識が変わります。治療の場では親密な関係避ける自分を何とかしたいと切望する一方でそれは大変な思いをするという自分はスプリット・オフされます。ですから治療の場から離れると途端に、スプリット・オフされていた辛い思いが意識化されて次第に足が遠のいてしまうのです。このスプリッティング機制を治療の場でhere and nowで扱うことによって主観と客観のバランスが改善されると、きっと現実の一部だけを切り取って主観的に判断してしまうパーソナリティ構造は変化すると思うのです。
 辿りついたのはパーソナリティ障害の治療で欠かせないスプリッティン機制を扱うという結論になりました。それ以上のアイデアは今のところ浮かんできません。日本サイコセラピー学会雑誌に投稿した『自己愛・回避性パーソナリティ障害の精神療法』という論文で50分という長さの精神療法は患者さんには負担で中断率がとても高いということを指摘しました。それよりも一般精神科の短時間セッションの保険診療の中で現実を回避しようとするパーソナリティ特性と同時に社会に出ていきたいという熱い思いもあること、その弁証法的緊張関係を維持しながら治療を続けていく重要性を指摘したことは“静かなるBPD”の治療にも同じように言えるのではないかと思っています。
W.さいごに
 “静かなるBPD”という言葉を使って、かつて臨床で猛威を振るっていた行動化優位の“荒々しいBPD”に対比させて、そのパーソナリティ構造の違いや治療の困難性について述べてきました。“荒々しいBPD”の日本版治療ガイドラインも刊行されました。それから7年経った現在、私はBPD治療にトラウマ論を絡ませた治療モデルを提案しています。しかし本論のテーマである“静かなるBPD”の治療モデルは暗闇の中で右往左往している段階です。今、言えることはスプリッティング機制を扱うこと程度しか思いつきません。 

参考文献
1.牛島定信【編】『境界性パーソナリティ障害〈日本版治療ガイドライン〉』.金剛出版、2008. 
2.川谷大治、牛島定信、鈴木智美ら:福岡大学病院における境界例診断の変遷と治療について.精神神経学会  雑誌vol.92(11);830-837,1990.
3.川谷大治:臨床ダイアリー『トラウマと反復強迫』
4.川谷大治:臨床ダイアリー『新型うつ病について』
5.川谷大治:自己愛・回避性パーソナリティ障害の精神療法.日本サイコセラピー学会雑誌vol.16(1);  25−33,2015.
posted by Dr川谷 at 23:21| Comment(1) | 臨床ダイアリー

2016年05月02日

新型うつ病について

2016.05.01(日曜日)『新型うつ病について』
T.新型うつ病とは
 新型うつ病という言葉を聞くようになったのは21世紀になってからでしょうか?それ以前に似た病態は逃避型抑うつ(広瀬)、未熟型うつ病(安部)、ディスチミア親和型うつ病(樽見)などと呼ばれていました。大人のうつ病を大雑把に分類すると、アメリカ精神医学会が出しているDSM‐5によると@うつ病、A2年以上続く持続性うつ病、そしてB物質・医薬品や身体の病気によって引き起こされるうつ病、の3つがあります。
新型うつ病は上記の3つのどの分類にも入りません。けれども「うつ病」という病名を与えられているのでややこしいのです。それではうつ病ではないのか、と突っ込みたくなりますが、臨床的にはDSM‐5の@うつ病をある時期満たすので、うつ病ではないとも言い切れないのです。ですから診断がとても紛らわしいので、精神科医は「抑うつ状態」と告げることが多いのです。
 1.典型的なうつ病とは?
 精神科や心療内科を受診されて、抑うつ状態と診断されたときには、典型的なうつ病ではないと考えてよいでしょう。それでは典型的なうつ病とは何を指すのでしょうか?古典的には焦燥感の強い“内因性”うつ病のことです。私が精神科医になった1980年当時はメランコリー、あるいはメランコリー親和型うつ病と呼んでいました。ソワソワして落ち着かず、たとえどんなに嬉しいことがあっても抑うつ気分は晴れることがありません。考え事も進まず堂々巡りし、一日臥床するかあるいは部屋をウロウロ歩き回る、食欲もなくなり体重も落ち、寝付いても朝早く起きて、夕方になって多少は気分も楽になることもあるが、朝を迎えると再びどん底に落ちて、自分を責め、死にたい気持ちが強くなって、実際に死場を探す行動に走ることもある。メガネは顔のほてりで曇り、頭痛もひどい、そんな重篤なうつ状態を呈するのを内因性のうつ病と診断されました。内因性というのは外因性の反対語で病気が、例えばウィルスに感染するように外からやってくるのではなくて、脳の不調から起きるという意味です。
 ところがです。アメリカ精神医学会がうつ病像を定義したときに混乱が始まったのです。DSMシリーズは疫学調査が目的の診断基準ですので、もちろん古典的なうつ病も含んでいますが、それよりもずっと広い概念を提唱したのです。それをDSMのうつ病、Major Depressive Disorder(MDD)と言います。大うつ病性障害と訳されて頭文字を取ってMDDと呼びます。病気に軽症や重症といった尺度はあっても、メジャーもマイナーもありません。それなのにMajorと形容したのがつまずきの始まりです。Minorという形容詞がないので、このメジャーという形容詞は主要なという意味で、概念が広いということを意味しているのでしょう。それではDSMのうつ病(MDD)の診断基準を見てみましょう。
A.以下の症状のうち5つ(またはそれ以上)が同じ2週間の間に存在する。
  1.抑うつ気分
  2.興味・喜びの著しい減退
  3.著しい体重減少あるいは体重増加(≧5%/月)
    食欲の減退または増加
  4.不眠または睡眠過多
  5.精神運動性の焦燥または制止
  6.易疲労性、または気力の減退
  7.無価値感、不適切な罪責感
  8.思考力や集中力の減退、または決断困難
  9.死に関する反復思考、自殺念慮、自殺企図
  ※ 少なくとも1または2を満たしていること。
B.その症状のために日常生活(仕事)に支障をきたしている。
C.物質や身体病によって引き起こされていない。
D.他の精神病性疾患では説明されない。
E.躁病や軽躁病のエピソードが存在したことがない。
 A項目の2週間の間に5つ(またはそれ以上)の症状が存在し、B〜Eを満たすとMDDと診断されます。古典的な内因性うつ病は病像の期間がもっと長く続きます。臨床的には3ヶ月から1年間は続くような印象を持っています。この私たち臨床家の印象を科学的に論じるためにDSMは登場したのは良いことなのですが、それが2週間という短期間を含めたことによって診断基準が幅広くなったのです。
すると、ある精神科医が「うつ病像が短いので典型的なうつ病ではないなー」と考えて「抑うつ状態」と診断してもDSM的にはうつ病であって誤診ではないのです。逆に、古典的な内因性のうつ病ほど重症ではないが1年以上もDSMの診断基準を満たすような慢性化したうつ病も存在するのです。これもMDDと診断してよいのです。後に説明しますように、新型うつ病では患者さんが置かれる環境によってMDDと診断されることもあれば診断されないこともある、という変梃りんな事態が起きてしまうのです。短期間でMDDと診断されなくなる場合をどう診断したらよいのか、という疑問が噴出し、新型うつ病と呼ぶようになったのです。
 DSMのうつ病を大まかに図示すると以下の図のようになります。

 2.新型うつ病とは
 ここで新型うつ病の説明に入ります。上の図の適応障害と不安障害、パーソナリティ障害、その他を持つ患者さんがある環境の下でMDDの病像を満たすと、DSM的には大うつ病と診断されるのです。その中に新型うつ病と呼ばれるようになった患者さんの一群が存在するのです。私の創作ですが、ここで新型うつ病を患っているYさんに登場してもらいましょう。
 【症例】
 幼少の頃より学業も優秀で性格的にも温和で対人関係も豊かであった青年Yは大学を卒業し社会人として働きはじめた。Yは順風満帆のスタートを切って、職場でもその才能を認められ、日々元気に活躍していた。ところが、ある仕事を担当した途端にYは仕事が苦になり始め、眠れなくなって出勤前に頭痛や吐き気に襲われ会社に行けなくなった。気分も晴れないので病気ではないかと考えて精神科や心療内科を受診したところ『抑うつ状態』と診断された。Yはこれ以上会社に行くことに自信を失っていたので診断書を書いてもらって上司の下を訪ね、相談の結果、自宅療養を始めることになった。
 自宅療養は3か月間だった。2週間もすると気分もよくなり、外出し、買い物を楽しめるようになってきた。心配していた家族は気晴らしに旅行にでも行ったらと勧め、Yも興味を持っていたX地方に3泊の旅行に出かけた。すっかり良くなったYは主治医と相談して復職を考え始めたところ、再び眠れなくなって頭痛に悩まされるようになった。3ヶ月の休養期間が終わりに近づいてくるとだんだん抑うつ状態も深刻になり、とても復職できるような心身の状態でなくなった。薬物治療も奏効せずYは再び自宅療養を続けるようになった。
主治医は復職の準備が欠けていたと反省し、再び元気になったYにリワークを勧めた。最初はYも乗り気であったがその日が近づいてくるとだんだんと抑うつ状態になって、家族の心配も強まり、家族の勧めるままにYは転院することになった。
 典型的には以上の経過を呈する患者さんの病態を「新型うつ病」と呼びます。安部隆明先生は「未熟型うつ病」という呼び名で以下のようにその特徴を説明しました。「周囲から庇護されて葛藤もなく過ごしてきた20代後半から40代の男女が、現実活上の挫折からそれまでのライフスタイルを維持できなくなることを契機にうつ病に陥り、その経過中に不安・焦燥優位で自責に乏しいうつ病像を呈し、周囲に対して依存と攻撃性を露にする。現実から離れると軽躁状態を呈する」。ここで阿部先生の指摘する軽躁状態とは心の奥底には不安・抑うつ気分が存在するけれど、それを追い払うかのように「ラーメン・祭りは博多たい!」とお祭り気分になっている状態で精神分析的には躁的防衛と呼びます。ですから、軽躁状態を薬物治療で対処しようとすると問題はこじれてしまうことが多いのです。ふんわりと誇大的になっているので、強く制止するわけでもなく、気づかないふりして無視するでもない、弁証法的な緊張を保ち続けて見守ることが大切になってきます。
新型うつ病を的確に描写しているのは広瀬徹也先生の「逃避型抑うつ」です。広瀬先生によると、「典型的にはエリートサラリーマンにみられる性格の問題に一見見えるが、実際は気分障害に属する病態。パーソナリティの問題(スプリッティング)の扱いが困難」だと要約しています。彼は新型うつ病の患者さんを端的に「ええ格好しい」と言い表しています。自己愛の問題が見え隠れしていると指摘しているのです。さらにパーソナリティの問題にまで言及しているのは鋭い指摘です。ですが、残念なことにパーソナリティ構造に見られるスプリッティングの扱い方には言及していません。このスプリッティングを扱わないと彼らは長引くうつ状態のために職場を去り、長い闘病期間と復職失敗のために自信を失い、放浪の旅に出る可能性が高くなるのです。何とか職にありつけても数年間の失職時代で後れを取っている状況は無視することはできないのです。
 ある環境の下では自分の能力を活かせるのに、何故ストレスフルな環境になると途端にDSMのうつ病を発症させるのか。そして、その環境を離れると速やかにうつ状態から回復するのか。自己愛と抑うつ状態、パーソナリティ機能、回避機制、スプリッティング・・・・といったキーワードが浮かんできます。
U.新型うつ病の理解と治療
 先に記したキーワードを説明するためにはパーソナリティ構造の分析が欠かせないのですが、それに入る前にパーソナリティという専門用語について説明しなければなりません。そのためにしばらく時間を下さい。
日本人は明治の頃に欧州の文化を輸入する際に外国語を日本語に徹底的に翻訳し直しました。Skyを空と訳したのは森鴎外です。Symphony を交響曲と訳したのは夏目漱石です。二つとも原語よりも素晴らしい響きがありますね。ところが、personalityを訳するのは簡単ではなかったのです。最初、明治14年には人品と訳されました。そして明治23年になって、『哲学会雑誌』にイギリスのマインド誌の論文を紹介する中でpersonalityを心理学用語として『人格』と訳したのです。その後、人格という和製漢語が独り歩きしていきます。人格の『格』の意味は、春の芽の発育する姿から出たもので、「まっすぐ」という意味から、「至る」「正しき」という意義が出てきます。それが人格という言葉から出る道徳的なニュアンスです。横綱の品格という使い方にもそれは見て取れますね。そのために、personality disorderを人格障害と訳したために、人格が倫理的に異常をきたしているという響きを周囲に与えるために、誤解が生れ、今日ではパーソナリティ障害と訳されるようになりました。
 1.パーソナリティという精神医学用語について
 さて、パーソナリティという用語の説明から始めます。パーソナリティとは
DSM−5の専門用語集では「外界と自己に関して知覚し、関係し、および思考する永続的な様式」と説明されています。簡単な例を挙げると、挨拶をしたのに相手の返答がなかったとします。それに対して立腹する人、嫌われたと悲しむ人、どうしたんだろうと相手の気持ちを気遣う人、いろいろでしょう。その反応が常に変わらない様式の場合をパーソナリティというのです。常に自分は嫌われているのだと自信を失う人の場合、傷つきやすい自己評価の低いパーソナリティと言い表します。逆に、いつも腹を立てる人の場合、誇大的なパーソナリティと表現されます。三番目の人に出会うと、みんな「大人だね、成熟したパーソナリティですね」と感心することになります。
 本題に戻って、それまで順調に仕事をこなしてきたのに、ある上司からひどく批判された、あるいは仕事をこなせなくなった、という事態をどう理解し、それに対してどう対処していくかという一連の認知、思考、判断の流れの様式をパーソナリティと呼ぶのです。新型うつ病では、パーソナリティに問題があるというのが広瀬先生の指摘です。
 では、どのように問題があるのか。先ず、ある時期まで順調に仕事をこなしている自分がいます。なのに仕事に行き詰まり汲々としている自分が現れました。新型うつ病になる人は、仕事はやれるという自分が本当の自分であって、仕事ができないという自分を受け入れきれません。すなわちできない自分がいるという現実を否認したい。でも現実が圧しかかってきて「できないはずはない」と焦りだします。否認しようにも現実には仕事ができないので、自分を支えてきた「できる自分」を失ってしまうことになります(このくだりは臨床ダイアリーの『怒りの内向について』で詳しく触れていますのでご参照してください)。そして怒りが内向しうつ状態になるのです。でも自宅療養で現実から解放されると再び元気になるのですが、次に、その現実から回避しようという機制が起きるから事はややこしくなってくるのです。
 この時、新型うつ病の患者さんは「できる自分」と「できない自分」を統合できないのです。それで「できない自分」を否認・回避しようとするのです。そのとき「かつて仕事ができた自分」は支えになりません。心の中では「できない自分」だけを認知し、「かつてできた自分」はスプリット・オフされているからです。同様に、「できる自分」のときにはそれだけが意識されて「できない自分」は意識されないようにスプリット・オフされているのです。この心理状態を未統合というわけです。
 2.川谷医院での新型うつ病の治療
 このスプリッティング機制を無視するとどんな治療も助けにはなりません。つまり、薬物治療や心理社会療法(リワークやデイケア・ショートケアなど)そして認知行動療法を中心とする各種の精神療法でも治療の効果が一時的に終わるのです。どうしたらパーソナリティの改築を達成させられるか。ここで、当院で行っている治療法を紹介しましょう。私が精神療法の40巻3号に投稿した論文『精神科クリニックにおける力動的精神療法』(2014)を下に述べることにします。
 1)病気になりやすい病前性格
 私が精神科医になった1980年にDSM-Vが登場しました。DSMとドイツ語混じりの伝統的精神医学をスプリットしながら、つまり白衣の右ポケットには先輩から譲ってもらったドイツ語の用語集を左ポケットにはDSMの用語集を入れて、研修医生活を送っているうちに私は患者の育った環境や症状を産み出す病前性格に興味を持つようになりました。この病前性格をパーソナリティ構造として見直すと日々の臨床に使えることが分かったのです。フロイトの有名な公式、神経症の素因=遺伝的体質+小児期の体験、になぞらえて素因をパーソナリティ構造と考えたわけです。
 今年の正月に何度も読んでは挫折を繰り返していた『法華経』に再び挑みました。結果的にはまた挫折に終わったのですが、初心者向けの橋爪大三郎/植木雅俊による『ほんとうの法華経』(2015)を読むことはできました。その本によると、仏教の説く因果は「果=因+縁」と考えるそうです。山崩れを例に例えると、大雨が降っても必ずしも山崩れは発生しません。地盤が緩んでいたという内的問題(因)に大雨という原因(縁)が起きて山崩れが発生する、と考えるのだと言うのです。私が興味をもった病前性格も似たような考え方です。仕事に行き詰まったから必ずしもうつ病になるわけではありません。上司に相談して解決できるかもしれません。なぜうつ病になるのか?それは地盤が緩んでいる、つまり病前性格に問題があるからだと考えるのです。メンツを大事にするあまり、上司に相談できないのも問題ですよね。それではその病前性格とは何か?
 病気になりやすい病前性格とは、もとの生物学的素因が成長過程で柔軟性を失い、ある環境下では適応的だが別の環境では不適応を起こすスプリッティング現象が観察されることをいいます。
 ところでこの病前性格はどのようにして起きたのでしょうか。思うに、もともとの気質(素因)に母子分離といった人生最早期における諸問題、両親の離婚(喪失モデル)、虐待や夫婦間の不和による家庭内緊張(PTSDモデル)、教育現場の問題(いじめ)、思春期の成長過程で他者とぶつかり合う経験の欠如(いい子)、などが挙げられます。その中で私が強調したいのは、10歳の自我の芽生えの頃のいじめや転校による不登校です。この時期の社会からのドロップアウトは子どものこころに恥と劣等感を植え付けると同時に、空想世界にその万能感の住処を求めることになります。さらに、いじめや不登校によって教育の場を失うと、自分がどれほどの者か分からないまま身体だけ成長していくといった歪な発達を遂げることになります。病気になりやすい病前性格、つまり性格が柔軟性にかけ不適応をもたらし、かつ重大な機能的障害もしくは主体的苦悩を引き起こした状態が発達停滞したパーソナリティ構造なのです。
 2)力動的保険診療(生きなおしの精神療法)
 ある環境下では持っている能力を十分に発揮できるのに別の環境下ではパーソナリティの病的部分が表面化するといったパーソナリティ構造、つまりパーソナリティの中に健康な部分と病的な部分がスプリットしたまま共存していないかどうかを明らかにして、患者と主治医との間で展開される特有の関係(転移現象も含めて)に注目すると、対人関係における柔軟さと社会適応の幅を広げることに繋がり、患者の生き方にそれまでとは一味違った復活が訪れます。
 私がこれから述べようとする治療関係は、保険診療の中で転移を舞台に患者が人生を「生きなおす」という視点をもとに主治医はその舞台を設定し相手役を演じる、治療スタイルです。ウィニコットは、精神病理の発生は環境側の失敗にあり、新たに「ほどよい環境」が提供されると、つまり治療的退行を通じて、その凍結された失敗状況が解凍される可能性があると考えました。バリントはそれを「新規蒔き直しnew biginning」と呼び、いずれも分析することよりも共に生きなおすことを重視する治療姿勢で、筆者の「力動的保険険診療」もその流れにあると考えています。
 3)具体的には?
 症例を呈示するのがベストな方法でしょうが、それには患者さんの掲載の許可を取らないといけません。今日は大型連休の中日でそれも叶わないので、架空の人物を登場させて具体的な治療について述べてみようと思います。すべてフィクションなのですが私の臨床経験がどこかに出てくるかもしれません。一部自分のことを語っているところもないわけではありません。
先ほどの青年Yに登場してもらいましょう。
【治療経過】
 Yの困っていることから話を聞いていった。夜が眠れない、朝から身体がきつくて横になっている、以前好きだった趣味にも関心が向かず、憂うつで仕方がないという主訴だった。DSM‐5のMDDと診断し、Yを症状からだけでなく立体的に理解するために、次のセッションから幼少期の頃からのパーソナリティ発達について訊ねることにした。同伴者の母親からは幼少の頃の家庭環境や2、3歳の頃の様子について情報を得た。夫婦が上手くいってなかったこと、母子分離はスムーズで明るい子どもだった、むしろ母親の方がYを頼っていたという話を聞くことができた。
 Yには6歳上の姉が一人。母親は名家の出で父親の部下だった夫と結婚した。事情はよく分からなかったが、両親は次第に心が通わなくなって、父親は単身赴任で家を空けることが多くなっていった。そういう事情もあってか母親に溺愛された。人柄は温和で友達と言い争うこともなかった。ただ、幼少期から周囲の期待を過剰に取り入れてそれに応えようとする傾向があった。小学校5年生の時に父親の転勤で都会の学校に転校することになった。学校にはすぐ適応できたが、こころから話せる友達はなかなか現れなかった。母親が喜ぶこともあって国立のK大学に行きたいと夢を膨らませていた。
 他者の期待に過剰に応えようとするパーソナリティは思春期に入ってからも続き、彼の基本的な対人関係パターンとなった。高校生の頃から内向的になって勉強に熱が入らないこともあったが、そんな一面を母親の前では微塵も見せず、そのため一時期、自分が何者なのか分からなくなることもあった。
受験勉強はとても不安だった。K大学は不合格になったが、倍率の高い私立大学に入学できた。しかしそれを素直に喜ぶことができず、どこかで自分には実力が欠けている、という劣等感を抱いていた。それでも4年間頑張って大学を出て、一流企業といわれているW社に就職することになった。
以上の生い立ちが語られて1ヶ月が過ぎた。うつ病者は内的なことを他人に話すことは避ける、つまり自閉的な傾向があるのだが、Yの場合主治医の私の期待に応えようとして上記のような生い立ちが明らかになった。しかし、口を開くのが重いので他の患者よりも時間を要したことは追加しなければならない。嫌な思いを吐いてスッキリするというのは健康なパーソナリティの持ち主で彼は関係のない話題は流ちょうに喋ったが、肝心な内容になると口が重たかった。丁度、会社に行く前に吐き気がしたり頭痛がしたように。
こうして、リワークに通わなくなって元気になっていくのであるが、何か頼りない心地をしているように見受けられた。しかし、その自覚はYにはなかった。これは新型うつ病者の特徴がよく現れている場面である。後に説明するスプリッティングという現象である。薬物治療も必要にならない程に生活を楽しめるようになっていく一方で時折見せる自信のない、憂うつそうな表情を垣間見せるのであった。言い換えると、Yの中に互いに交じり合わない二つの顔があるのである。一方が外に出ているときには片方を認識することができない。しかも元気になっていくと復職という問題が意識に上るはずなのにYにはそれが意識されなかった。何度かキャンセルが続いたある日の診察の時にYは「昨夜は嫌な夢を見て目が覚めました」と笑いながら報告した。夢は逃げても逃げてもゾンビに追いかけられるという内容だった。私は「元気になったあなたの横で怯えているあなたが夢の中に現れたのでしょう」と解釈した。スプリッティング中心に生活する人の治療では、死に体同然の抑うつ状態のYの部分(ゾンビ)と会社を離れて元気になって周囲を喜ばしているYの部分に橋を架ける作業が欠かせないのである。
 この過程を通して彼は母親との密着した関係を顧みることができた。母親が夫に求めたのは自分の理想的な父親像、つまりYの祖父像であって、目の前にいる等身大の父親ではなかったのではないか、とYと私は理解した。等身大とは父親が母親とギクシャクしていた時にゲスな言い方になるが『父に女ができた』という現実の父親の姿である。母親に溺愛されたYは祖父替わりでもあり、常に母親の喜ぶ姿がYのこころの栄養だったわけである。一方で、自分と母親との関係を客観的に見つめなおそうとする努力は主治医である私の期待に応えようとする試みでもあった。Yにとって私は矛盾を抱えた存在になった。父親をとるか母親をとるか、というテーマが私との間でも展開し、治療に通うのが辛くなったということが分析作業から明らかになった。母親から父親に関する愚痴を聞かされてきたYにとって父親は好ましからぬ人である。父親に近づくことは母親を裏切ることであって、私の期待に応えて内的探求を続けることは母親を裏切る結果につながるので何度かキャンセルが続いた、ということを彼は受け入れた。
 高校生の頃に好きな女子ができて勉強に夢中になれなかったのは、健康なこころの発達過程であるはずなのに、母親と密着し過ぎていたYにとっては受け入れがたい経験になった。Yは勉強しなければならなかったのである。就職して最初は仕事も楽しかったけど、ある苦手な作業に入ってから上司の期待に応えられない自分に不安と恐れを感じ始め、夜が眠れなくなったという。それは自分が闇の中に深く永遠と沈み込んでいく恐怖で言葉に言い尽くせないと振り返った。それは職場復帰のことを考えたときに起きる突然の恐怖でもあった。常に「できる子」でなければならないYにとって「できない」という現実は彼を苦しめた。ならば、上司に素直に相談できたかというと、Yにはできなかった。Yは「聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥」という諺が身に染みる経験となったと語った。
 こうして半年が経って会社の上司も交えて話し合いを設けYは職場に戻ることになった。それからも抑うつ状態は波を打つように上昇、下降を繰り返していった。受診する間隔も2週に1度から4週に1度と長くなり受診も途絶えてしまった。劣等感と恥を抱えながらも元気にやっているとよいのですが。
【治療のまとめ】
 Yの治療を振り返ることで新型うつ病者の精神科治療についてまとめようと思います。診断はDSM−5を満たす抑うつ状態(MDD)が2週間以上続き、かつYにとってストレスの場である職場を離れると速やかに抑うつ状態は改善するので新型うつ病と診断してもよいでしょう。新型うつ病という病名は巷で言われる診断名であって学術的かつ臨床的な病名ではありません。でも新型という形容詞をつけたいのは他のうつ病と違って、広瀬先生が指摘するようなパーソナリティに問題があるというスプリッティング機制が見られるためです。でも他のうつ病にもスプリッティング機制は認められます。ただ、その出方が新型と通常のうつ病で違うだけです。
新型うつ病の場合のスプリッティングの出方はストレスフルでない自分の能力を活かせる現実だとイキイキと生活を送れるのに、一方で自我を圧倒するようなストレスフルな現実に直面すると途端に抑うつ状態になり、その現実を離れると抑うつ状態から解放されるという事実にあります。このスプリッティング機制は幼少期から見られるということは押さえておかねばなりません。親は子どもの一側面のみを見る傾向があります。バランスよく見れる親がそばにいると子どもは救われるでしょうが、症例に出したYのように周囲の顔色を読むのに長けた子どもであればきっと親は子どもの暗い分に思いを馳せることはできないでしょうね。太宰治の『人間失格』がよい例です。
 こうして人前の自分(良い自己)と人前には現れては困る、つまり期待に応えられない自分(悪い自己)が互いに干渉しあうことなく共存したパーソナリティ構造が形成されていくのです。必然的に、その後のパーソナリティ発達はか細くなります。例えば、10歳前後の『自我の芽生え』の頃に挫折しやすくなったり、思春期の他者とのぶつかり合いを避ける癖が身についてしまいます。そしてパーソナリティ発達が停滞し、空想的には誇大的である一方で現実には逆境に弱い傷つきやすい「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」を飼い太らせる結果になります。すると、失敗を恐れる心理状態が整うのです。
 治療ではこのスプリッティングにいかにアプローチするかに関わってきます。スプリッティングに気づかずに患者の精神状態にのみ焦点を当てると、抑うつ状態には薬物治療と自宅療養、長引く治療には心理社会療法といった患者さんの心に響かない治療をただ続けるだけに終わってしまいます。
それでは、スプリッティングの扱い方について簡単に触れたいと思います(2009年に上梓した『自傷とパーソナリティ障害』(金剛出版)には詳しく取り上げています)。Yさんのようなマイルドなスプリッティングの場合と境界性パーソナリティ障害のスプリッティングの場合とでは扱い方は根本的に違いがあります。後者の場合は矛盾を抱える能力を育てていくことにポイントが置かれるのに対して、新型うつ病の患者さんの場合は共存する2人の自分に橋を架ける作業が必要になってきます。具体的には、沈み込んでいるときに空想の中の誇大的な自分に気づかせること、元気になって躁的防衛が見られるときには防衛している不安と抑うつに直面化させることです。どちらの自分も自分であって自分でないという曖昧さを受け入れるようになるとよいのです。
V.さいごに
 今年の5月の連休は家でのんびりと過ごす予定です。好きな作家の本を読んで買ったばかりのテレビで映画を堪能する。そして、この臨床ダイアリーを綴るという楽しみがあります。散歩にも出かけないといけませんね。忙しくなってきそうです。
 今回は、『新型うつ病』を取り上げてみました。新型うつ病の特徴を描き出すのにアメリカ精神医学会が刊行しているDSM−5を紹介することで違いを浮き彫りにしてみました。そしてその治療には「生きなおしの精神療法」が欠かせないということと、生きなおしを成功させるうえで重要なことがスプリッティング機制を扱うこと、だと述べてきました。症例は私の創作したものですが、過去に治療した患者さんも部分的には登場しています。でもプライバシーは守られていますので安心してください。

参考文献
1. 橋爪大三郎/植木雅俊著『ほんとうの法華経』ちくま新書1145、2015.
2. 川谷大治著『自傷とパーソナリティ障害』金剛出版、2009.
3. 川谷大治:精神科クリニックにおける力動的精神療法.精神療法、vol.40(3)、2014.
posted by Dr川谷 at 13:39| Comment(0) | 臨床ダイアリー