2017年11月27日

臨床ダイアリー17『完全主義の落とし穴』

T.はじめに

今回のテーマは「完全主義Perfectionism」です。完璧主義とも言います。臨床ダイアリー16「自己愛について」を4月10日にホームページにアップしてからスランプが続いていました。さぼっていたのではありません。この間、自己愛についてA、醜形恐怖症、根拠のない自信、フロイトの神経症論の復活、など書いてはみたものの、いずれも納得いかなくて未完成に終わっていたのです。そうこうするうちに夏になり、秋がやってきて、あっという間に11月です。あと5日で12月です。

あれこれ書いては頓挫して、気を取り直して別の主題に移ることを何度も繰り返している内に機が熟したのか、「完全主義」について書いてみようと思いました。「完全主義」については自著『自傷とパーソナリティ障碍』でも一章を設け、私にとって関心の高いテーマなのですが、あれから8年が経ち、これなら世に出せそうだというモノが固まってきました。それを本小論では書こうと思います。

U.完全主義について

長年、境界性パーソナリティ障碍(以下、BPD)の治療に当たって思うことは、BPDと診断される人たちのなかに病前性格が完全主義という人が少なくない、ということです。そして完全主義にはナルシシズム(自己愛)が絡んでいるので、扱いがとても難しい。「完全主義を変えたい」という理由でクリニックを訪れる完全主義者もいますが、性格に変化を与えることは難しいと言われてきました。今日では「性格を変える」という考え方自体がそもそも間違っていると考えるようになりました。変えるのではなく、客観的に捉え、性格に振り回されないようになる、という方が正確でしょう。

完全主義とは、大辞林によると「物事を行うに際して、完全に行わないと納得できない性向」と簡潔に説明されています。Wikipediaでは「完全主義とは心理学においては、万全を期すために努力し、過度に高い目標基準を設定し、自分に厳しい自己評価を課し、他人からの評価を気にする性格を特徴とする人のこと。定められた時間、限られた時間の内にて完璧な状態を目指す考え方や、精神状態のことである。このような思想を持ったものや、そのような心理状態の者を完全主義者、もしくは完璧主義者と呼ぶ」とあります。完全主義には正の作用と負の作用があります。良い仕事は完全主義でないとできないし、JRの電車も時間通りには運航できないでしょう。負の作用がここで取り上げる「落とし穴」のことです。行き過ぎた完全主義の治療についてはWikipediaでは認知療法を挙げていますが、日本では歴史的に精神分析療法や森田療法が成果を上げています。

完全主義は精神科臨床ではBPD以外にも思春期やせ症、強迫症、うつ病、強迫症などの患者さんに見られます。この完全主義をもつBPD患者の治療は、完全主義の扱い方に大きく左右されるのです。完全主義を上手くいくと短期間でかつ劇的な寛解に至ることができるし、その対応が拙いとボーダーライン状態は延々と続き、本人にのみならず周りも疲労困憊に陥る危険性があります。

また完全主義はナルチシスティックな人や強迫的な人に見られますが、前者が自分に甘く他人に厳しいのに対して、強迫者のそれは自己批判的で周りの人たちへの関心は少ない。ナルチシスティックな人たちは「自分は完璧主義だ」という思い込みが強いのが特徴です。

本小論ではこの完全主義について患者さんから教わったことを書いてみようかと思います。

U.完全主義者の落とし穴

 私が最初に完全主義者に出会ったのは研修医1年目の思春期やせ症の患者さんでした。次に、福岡大学病院に内地留学して受け持った過食症を合併したBPDの青年です。3例目はクリニックで担当した外出恐怖症の女性です。運よく3人とも病気は改善したのですが、完全主義の治療が完璧にできたかと問われると自信がありません。でも、3人の治療経験は私の大きな財産になりました。開業してから完全主義者のBPDやうつ病を治療する機会に3人の治療経験がとても頼りになったのです。

1.3人の治療経験から得られたもの

 最初に指摘しておきたいことは、完全主義は病気を治すのに抵抗勢力になるということです。なぜ治療の抵抗になるのか。その理由を病気の成り立ちから考えてみましょう。メンタルの病気は様々な内的不安を防衛するために種々の症状が生まれ、それを強固なものにするために完全主義が縄を編むように絡み合って複雑な病態を形成しているからです。故に、病気の成り立ちを理解しようというのではなく、完全主義が治療の目的になり変わり、症状を消失させようということにのみ意識が集中して完全な治癒像を求めてしまうからです。

 思春期やせ症の中学生は自らに課した過酷な食事制限とエクササイズを守ったために体重は30s、無月経、徐脈、多毛の先祖返り、などの症状が出現しました。外来では治療困難と言う理由で入院した時に私が主治医になったケースです。入院すると病院食なので自分で制限する必要はないのでホッとすると同時に、病院食に任せると太ってしまうという不安が意識されるようになりました。それで自分に課したエクササイズと食事制限を完璧にこなすか、それとも病気を治すために病院食に身をゆだねるか、というジレンマに陥ったのです。そこで彼女は入院と言う保護された環境から離れたら、再び完璧主義が復活できると考えて、つまり病気を治したくないのです、私に執拗に退院要求をしてきたのです。私は退院を許可せずに、淋しさ、無力感が辛いのだろう、と解釈したところ、ズバリ当たってただけに彼女は怒りだして、その怒りが活力になって病から脱出したのです。災い転じて福となすという典型例です。

BPDの青年は1日に腕立て伏せ800回、スクワット1000回、腹筋1200回を掟として自分に課して入院中は常にエクササイズに余念がありませんでした。病気が深刻になるにつれ、完全主義が動員されて20回からスタートした腕立て伏せは800回とエスカレートしていったのです。彼は掟を止めると、だらしない自分になってダラダラと食べ続けるので掟は捨てられないと訴えました。しかし、掟を守り続けるのも苦しいし他の患者さんとの交流の妨げにもなる(なにしろ1日中、病室でエクササイズに明け暮れるために)。やがて彼は掟を放棄しました。それからは売店に行ってはお菓子やパンを買ってベッドの上でダラダラと食べ続けたのです。それで摂食障害は収まりました。口の周りは幼児の様にクリームをつけて、呆然とした表情で食べ続ける彼の姿は今でも忘れられません。パンを味わうのではなく、詰め込むように食べ続けるのはBPDの「ボア」のせいだということがわかったのは5年後のことでした。専門的に言うなら、「ボア」が耐えられないので完全主義が防衛に加勢していた、ということです(「ボア」については精神科読本『境界性パーソナリティ障碍』を参照)。

外出恐怖症の主婦は独身時代から家計簿をつけて病気をしてからも克明に記録を続けていました。それに家事を完璧にこなすという作業を自分に課していました。毎日きちんとやれたかどうかは彼女の関心事でありその成果に一喜一憂していました。できないと自分を責め、落ち込み、外出恐怖症の病態を複雑なものにしていました。当時の私は臨床経験が浅く、手を抜いてはどうか、という今に思えばとんでもない介入をして患者さんを苦しみのドツボに陥れたのです。彼女は家計簿を止めて家事も放棄しました。案の定、自分の生きる意味を失い生きる屍同然になった、と私に訴えました。20年間守り続けてきた家計簿を中断したのは間違いだった、と私を責め立てました。ところが、ここで逆転現象が起きて、彼女は友人の手を借りずに自分の力で受診できるようになったのです。幼少の頃からしつけに厳しかった母親。それとは全く正反対の主治医の対応。父親が芸術家で理想の男性だったこともあって主治医の意見を受け入れたのです。その矛盾が彼女のなかで弁証法的な緊張となり、どちらであってどちらでもない、という答えのない問題を抱えることができるようになったのです。

2.病気と完全主義

 若い頃に出会った3人の治療経過を取り上げたのは、病気と完全主義は互いに分離せずに絡み合っているので、それを時間かけてほどく必要性があるということを言いたかったのです。

 3人とも治療経過の中で「完璧かずぼらか」の二者択一というジレンマに陥りました。答えが出ないのは彼らにとって歓迎されません。どっちかに割り切りたいのです。病気の発症の過程で完全主義が暗躍して病気をさらに進行させる、と言ってよいかもしれません。痩せたいという思いでダイエットする女性は多いと思いますが、完全主義者はそこから一歩進んで病の中に迷い込むのではないでしょうか。ですから、病気から解放されるためには完全主義を放棄しないと先に進めないのです。でも、それを捨てるのは彼らにとって容易なことではありません。と言うのは、彼らをこれまで支えてきたのは完全主義と言う性格だからなのです。そういう自分がまた可愛いのです。しかも、完全主義の正の要素に馴染んできたわけですから、負の要素が大きくなったからと言う理由で早々に捨てるわけにはいかないのです。捨てると、自分はだらしなくなってしまう。そのとんでもない自分とはこれまで避けてきた自分の一部なのです。それでは、彼らが安心して完全主義を緩める道が果たしてあるのでしょうか。

V.完全主義からの脱出

答えはyesです。完全主義を緩める策があるのです。私が完全主義の性格を治したいという患者さんの希望に応えて成果を上げたのは弁証法的アプローチと呼んでいる治療法です。

症例を2例、それぞれ強迫とナルチシスティックな症例を呈示して、完全主義の扱い方に関する弁証法的アプローチについて述べましょう。

1.症例A:強迫的な完全主義

 患者さんは強迫的な完全主義のために仕事に急き立てられるかのように没頭して、残業も自らの判断で取り組み、疲れ果てて仕事に就けなくなって精神科クリニックを受診しました。家族の勧めでやっと重い腰を上げたのです。主治医に「うつ状態に陥っているので休養し、お薬を飲みましょう」と説明されたのですが、仕事を休む状態に陥った自分がたまらなく嫌になって、処方された薬を一度に服用し、家族を巻き込んだ状態になってしまいました。主治医や家族は「完璧にやろうとするから疲れるのよ」と主張して休養を勧め、本人との間に「休め」と「仕事に行く」という二進も三進もいかない状態が続き、その緊張を和らげるかのように患者さんは自傷行為を繰り返すようになったのです。それで私のところを受診してきました。それまで行われていた薬物治療を整理し、半年後強迫的な完全主義に焦点を置いた治療へと進みました。

 患者さんの「働きたい」という心情に与すると休養はありえない話です。しかし、それだと永遠に安らぎは訪れません。イカロスの翼です。かと言って、周囲から「手を抜きなさい」と説得されるのは、身体は楽になりますが心の方は「駄目な自分になる」という恐れが支配的になります。それで、このどちらも成り立たない両極端な考え方をバイポーラ―セルフ(bipolar self)と擬人化して「あなたは完全主義の自分が支配的なようですが、周囲の人たちが勧めるようにもうひとり楽を求めるズボラな自分を育ててはどうでしょうか」と介入しました。「どういうことですか」と訊ねられたので、「完全主義を生かすためにもズボラな自分を心の中に住まわせ、二人をしばらく心の中に抱えていくのです」と説明しました。「抱えているだけでよいのでしょうか?」「そうです。そして次に、二人の間であれこれ対話をさせてみてください。例えばこんな風に。少しは休めよ。完全主義だと目標を達成するために躍起になって音楽や芸術を楽しめなくなるよ。嫌だ。楽を求めると成長・成功は見込まれない。あなたみたいにズボラな生活を送って何が得られるでしょう。活き魚は流れに逆らって泳ぐ、というではないですか。その通りだね。でも、何事も完全にやり遂げようとすると人間にとって大切な情緒を失うような気がする。・・・・」。この問答を続けていくと「答えが出ないですね」と彼女はつぶやいたのです。「答えが出ないのは当然です。アインシュタインも答えを出せない問題なのです」とコメントすると、彼女は「やってみます」と言って帰ったのです。それから彼女は「私なりに答えが出ました」と述べて、説明してくれました。ボーダーライン状態は半年ほどで改善し、仕事を休むことなく続けることができたのです。

 ヘーゲルは子どもが大人になるまでの思春期青年期の課題は個を押し通せば社会が困り、社会を慮ると個が無くなる、この背に腹を変えられない矛盾を引き受けて生活することが大人への第一歩だと述べました。あなたが友だちとの間でむしゃくしゃして部屋で大音量のロックを聴くと、必ず母親がやってきて近所迷惑だから音量を下げるように言ってくると思います。母親の意見に従えば気分は一向に晴れません。反抗すると気分はすっきりしますが近所に迷惑をかけて一波乱が発生するかもしれません。この矛盾を自分の問題として抱えていくのが大人になることだとヘーゲルは言ったのです。

2.症例B:ナルチシスティックな完全主義

 会社を辞めて治療に専念し、1年ほどで一時期の抑うつ状態から脱してアルバイトに出たBPDの患者さんです。「今度の職場は楽しいです。皆さん優しくてここならやって行けそうです」と喜んでいました。私は、彼女の現実の一部だけを切り取って、それを全体と見てしまう思考過程に思いを寄せて、「次回は落ち込んで来るだろうな」と予想しました。案の定彼女は「イライラします」と訴えて機関銃のように喋り続けました。何がイライラするのかと言うと、正社員の人たちはアルバイトの自分たちに仕事を任せて呑気に野球のドラフトの話をしたりして仕事を怠けている、というのです。ちゃんと仕事をしないのでイライラしてたまらないという。それで私は彼女の完全主義を取り上げました。

私:「完璧に仕事をこなす自分と比べると腹が立つのだ」

B:「そう。いっつも仕事をしないのですよ、あの人たち」

私:「私は私、彼らは彼ら、と考えられないんだ」

B:「腹が立つ。思い出すだけでイライラします」「どうしたらいい、先生」

私:「いい考えが浮かびました」

B:「えっ、何ですか」

私:「弁証法というやり方なんだけど。私がBPDの患者さんから教わった方法です。完璧主義の私と、その真逆のおっさんを心の中に作るのです。そして、二人の間で対話させてみてください。例えば、ちっとはしっかり働いてよ。あんたがいるから私たちは楽ができる。宜しくね。そーんな、一緒の仕事をして給料は私たちの何倍も貰うんでしょう。それは申し訳ない。でもあなたたちがいるから私たちも助かる。でもそれだと私たちアルバイトは損するだけです。・・・・・実演したように、完全主義は周りを助けるけど自分には利益がない。でもおじさん社員のような働き方は性に合わない。でも、ぐうたらおじさん社員は楽をする。この両極端のあなたを対話させてみてください」

B:「えーっ、それだけでいいのですか」

私:「一時期でいいと思います」

B:「でもよく考えたら答えは出ないみたい」

私:「弁証法的やり方は答えが出ないのミソなのです」

 こうして彼女は社会適応能力がアップして、1年ほど勤めることができたのです。

W.さいごに

 症例として提示した二人の患者さんは事あるたびに相反する性格を持つ二人の自分、つまり私が呼んでいるbipolar selfを対話させる機会を登場させて、どちらか一方に片寄らないようにバランスを取れるようになりました。つまり完全主義を放棄せずに完全主義に振り回されなくなったのです。それは心の中に完全主義の自分と、それとは真逆のズボラな自分を心に置いておけるようになったからです。

完全主義をもつ人は少なくありません。もし、自分もそうかなーと気づいておられるようでしたら、この弁証法的思考を身につけると、完全主義に気づき自分を見失うことも少なくなると思います。

posted by Dr川谷 at 13:15| Comment(0) | 臨床ダイアリー

2017年04月10日

臨床ダイアリー16:『自己愛について』

2017.04.10.(月曜日)
臨床ダイアリー16:『自己愛について』

T.はじめに

 精神医学はこころという眼に見えない領域を扱う学問なので、こころの中で起きている現象を日常語で描写するのは難しいことだと思います。しかも、日本の精神医学はドイツ、フランス、アメリカから輸入した学問なので、先人たちの訳した専門語がしっくりいかないこともしばしば経験されます。societyやpersonailtyを翻訳するのが難しかったようにnarccismも日本語に訳するのに苦心したと思います。原語の意味に相当する日本語がない場合、新たに和製漢語を作りださなければなりません。すると今度は、その訳語が独り歩きして本来の意味からかけ離れてしまうことがあるので、和訳するのには相当苦労したと思います。仕方なくカタカナで言い表すこともありますが、それだとカタカナ語だらけになってしまいます。

 今回は、ナルシシズムについて語ろうと思います。ナルシシズムとは英語のnarccismをカタカナで表記したもので、日本では「自己愛」と訳されています。なかなかセンスのある訳語だと思います。自己愛を英語に言い換えるとself loveになるのでしょうか。では、最初にナルシシズムの語源からはじめて、「自己愛」の問題に移りましょう。


U.ナルシシズム(自己愛)について

 ナルシシズムは周知のようにギリシア神話のナルキッソスの話が出典になっています。その話から始めましょう。

1.『ギリシア神話』のナルキッソス   

 眉目麗しいナルキッソスは女性の憧れの若者でした。ニンフのエコーもそのうちの一人で、恋する彼女は彼に愛の告白をします。ナルキッソスはエコーには見向きもせず、冷酷に扱ったために、復讐を司るネメシスの神から「人を愛そうとしない者は、自分自身を愛するがいい」と呪われてしまいます。そのためにナルキッソスは水面に映った自分の姿に引きつけられて「人を愛することがどんなに苦しいことか。死だけが僕の苦しみをしずめてくれる」と言って死んでいくのです。 

 この物語には愛の対象に自分を選択することは悪だというメッセージが込められています。なぜ自分を愛することは悪なのか。その理由は、なぜ人間は死ぬのか、という問いの中に隠されています。アメーバや大腸菌のような単細胞生物は生き延びるために自分のコピーを増殖させる作戦をとります。適した環境の下では単細胞生物は生き続けます。しかし単細胞生物の弱点は環境の変化に弱いところです。その欠点を克服するために、人間のような多細胞生物は環境の変化に適応できるように新しい細胞を次々に生み出しました。その方法とは、個体をオスとメスに分けて、つまり父親由来の遺伝子と母親由来の遺伝子をシャッフルさせることによって環境の変化に対応しようとしたのです。そして使命を果たした細胞は死ぬように運命づけられたのです。よって、遺伝子をシャッフルさせないことは悪なのです。

 ※自分を愛することは社会悪であり罰として「死」が与えられます

2.フロイトのナルシシズム

 ナルシシズムという言葉を心理学の世界に導入したのはフロイトです。フロイトは、『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』(1910)の中で同性愛患者の対象選択を説明するにあたってナルシシズムという用語を用いました。フロイトは言います。「同性愛者は自分自身を性の対象とする。彼らはナルシシズムから出発して、母親が自分を愛してくれたように自分が愛することのできる自分に似た若者を求める」と。

 次いで、『ナルシシズム入門』(1914)では、エネルギー経済論の見地から、自我リビドー(自分への関心)と対象リビドー(他者への関心)を区別し、ナルシシズムとは自我リビドーが増加した状態であるといい、(つまり自分のことばかりを考えている状態のことです)、統合失調症は外界の対象からの対象リビドーの撤収と自我への備給という理解を示しました。すなわち、統合失調症では外界の対象への関心が無くなり自分の殻の中に閉じこもっている状態、だと説明したのです。そして「理想自我とは、乳幼児的な自己愛selbstliebeの存続である」と述べました。自分を愛することは健康な成人にはあってはならないことだと言っているのです。ここでフロイトは、ナルシシズムとは「乳幼児的な自己愛」だと定義したのです。

 さらにフロイトは、こころの発達モデル(成熟過程)を提供しました。乳幼児ではもっぱら自分の身体に関心が向き(自体愛)、成長とともに自分への関心(ナルシシズム)へとエネルギーは流れ、最終ゴールとして心のエネルギーは他者に向けられる対象愛へと成熟するというのです。すなわち、自分に関心が向けられるナルシシズム段階にとどまるのは病的だと考えたのです。

 ※フロイトはナルシシズム(自己愛)を病的状態と考える

3.E・フロムのナルシシズムについて

 自分以外の他人を好きになるのがこころの成熟だというフロイトの説明は、ヨーロッパに住む人たちに広く共有される考えです。このフロイトの考えに真っ向から反論したのは新フロイト派のE・フロムです。

 フロイトの思想の根底には「利己心と自愛(self-love)とは同じもの。他人を愛するのは徳であり、自己を愛するのは罪であり、さらに他人にたいする愛と自己にたいする愛とはたがいに相容れない」という仮定が存在するとフロムは看破したのです。フロムは「利己主義と自愛は同一ものではない。愛はある『対象』を肯定しようとする情熱的な欲求(憎悪は破壊を求めるはげしい欲望である)」と言って、「私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象である」と自己愛を肯定するのです。フロムの考えを分かりやすく言うと、利己主義は貪欲の一つだし、根本的には自分自身を好んでおらず、深い自己嫌悪をもっている。つまり、自愛の欠如に根ざしている、と主張しているのです。さらにフロムは「ナルシス的人間は他人をも自分をも愛していない。 彼らのナルシシズムは−利己主義と同じように−自愛が根本的に欠けていることを、無理に償おうとする結果である」と主張します。

 フロムはナルシシズムと自己愛(self love)を区別して考えています。自分を愛するという自己愛自体は悪くはない、ナルシシズムのなかにある利己心が破壊的なのだというのです。ナルシシズムと自己愛は別物とフロムは考えているのですね。

 ※フロム曰く、「私自身も愛の対象である」

4.アジアの人たちの考え方

 フロムは「私自身も愛の対象である」とフロイトに反発しましたが、ナルシシズムには利己主義的な一面があるので肯定できないとも言っています。一方、アジア人はどう考えたのでしょうか。そのために釈迦の話を引用します。中村元著『原始仏教 その思想と生活』(NHKブックス)のなかで、原始仏教では「自己を愛する」ことを次のように教えています。

 或るときパセーナディ王はマツリカー妃に尋ねた。『マツリカーよ。お前にとって自分よりももっと愛しいものが何かあるかね』。『大王さまよ。わたしにとっては自分よりももっと愛しいものは何もありません』。妃はさらに反問した。『大王さまよ。あなたにとっても自分よりももっと愛しいものがありますか』『わたしにとっても、自分よりももっと愛しいものは何も無い』と。がっかりした王は釈尊のもとへ赴いた。話を聞いた釈尊は次の詩句を唱えた。『思いによっていかなる方向におもむいても、自分よりもさらに愛しいものに達することはない。そのように他の人々にとっても自分がとても愛しい。それ故に自己を愛する人は他人を傷つけるなかれ』 

 「それ故に自己を愛する人は他人を傷つけるなかれ」という釈迦のダメ押しは重要ですね。ここで釈迦は、自分を愛することは自然な行為だが、ともすれば利己主義に傾きやすい危険性がある、と言っているのです。言い方を変えると、人間が利己的なものであるという厳しい現実を認めることによって、同情も愛も成立する、と言っているのです。『自己を護る人は他の自己をも護る。それ故に自己を護れかし。しからばかれは常に損ぜられることはなく、賢者なのであろう』と。

 このような理想的な自己を実現するためには、もろもろの悪徳・煩悩の基づくよりどころとしての自己を滅却せねばならないのです。二つの自己とは、自己を愛し護ること(大我)と自己を滅しすてること(小我)、だと釈迦は教えているのです。

 ※釈迦は、自己愛は自然な行為だが危険と隣り合わせ、と教えた

5.日本ではどうか

 さて、日本では自分を愛することは許されるのでしょうか。夏目漱石の『それから』(1909)から引用します。

 彼は歯並の好いのを常に嬉しく思っている。肌を脱いで奇麗に胸と背を摩擦した。彼の皮膚には濃やかな一種の光沢がある。香油を塗り込んだあとを、よく拭き取ったように、肩を揺かしたり、胸を上げたりする度に、局所の脂肪が薄く漲って見える。彼はそれにも満足である。次に黒い髪を分けた。油を塗けないでも面白い程自由になる。髭も髪同様に細くかつ初々しく、口の上を品よく蔽うている。代助はそのふっくらした頬を、両手で両三度撫でながら、鏡の前にわが顔を映していた。・・・御白粉さえ付けかねる程に、肉体に誇を置く人である。・・・それ程彼は旧時代の日本を乗り越えている。  

 主人公の代助は親の脛をかじる「高等遊民」です。漱石は鏡の前で自分にうっとりする主人公を見事に描いています。小説ではこの後、学生の頃好きだった三千代との不倫関係へと移ります。つまり自己愛から対象愛へと進むのですが、代助は学生の頃、三千代に好意を抱いていたのに恋に陥るのを避けて、友人に彼女を譲るという過去をもっています。代助は人を愛することに葛藤的だった漱石の分身でもあります。というのは、漱石にとって人を愛することは罪なことだったからです。それを小説という架空の世界のなかで自身の問題を解決していくのです。漱石は学生時代に通っていた眼科の待合室である女性に恋心を抱いて妄想の世界に没入していくのですが、それを小説の中で生き直していくのですね。

 話が脱線しそうなので、元に戻します。自分にうっとりする姿を「それ程彼は旧時代の日本を乗り越えている」ことだとありえない話として解釈していますが、自己陶酔する代助の姿を否定しているわけではありません。小説が書かれたのは日本が日露戦争へと突き進んでいった危険な時代です。代助は働かないことによってロシアに勝利して浮かれる国民を非難すると同時に自己陶酔する日本人をも描いてもいるのです。

 漱石は日本人の自己陶酔しがちな側面を見抜いていました。日本で始まったカラオケやコスプレ文化は瞬く間に世界に広がっています。どうやら、江戸時代を眺めても明らかなように、文化や芸術が開花するのは、海外との交流を最小限にすることで、つまり外界の対象への関心を狭め自身への関心を高めるときに結晶化される、という特徴を日本文化は持っていると言えます。ですので、日本は自己愛を肯定する文化だと思うのです。ガラケーも“可愛い”文化もそうだと思いませんか。

 ※日本文化は自己愛の中で高められる


V.精神分析における自己愛について      

 自分を愛することは社会的悪という西欧の人たちの考え方に対して、フロムは、自己愛は決して悪ではない。ナルシシズムの中にある利己主義が悪いのだ、と主張して、ナルシシズムと自己愛を区別しました。一方、アジアでは自己を大我と小我の二つに分けて、自己愛に潜む矛盾を明らかにしてきました。日本では心のエネルギーが内向きの時に独自の文化・芸術・工芸が開花するように、自己愛を肯定する文化だと思います。

 要約しますと、自己愛は否定されるべき/受け入れるべき、という考え方には、以下の二つの態度があると言えます。

1)西欧文化
自分を愛することは社会悪であり、人間的に未熟な証拠だと否定した。
2)日本を含めたアジア
自分を愛することは自然なことなのだと肯定する一方で利己主義に傾く危険性もはらんでいるので利己心を滅すべき。

 フロムのようにナルシシズムと自己愛を区別して考えるよりも、ナルシシズムを自己愛と訳して、自己愛には正と負の二つの要素がある、と考える方が私には馴染みやすいですね。それでは、フロイトから始まった精神分析ではナルシシズムをどのように考えてきたのでしょうか。

 自己愛の理論を発展させたのはコフートKohutという精神分析家です。和田秀樹先生の『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析 コフート心理学入門』(2002)を参考に説明しましょう。コフートは著書『自己の分析』(1971)の中で、フロイトの「自体愛→自己愛→対象愛」という発達ラインとは別個に、「自体愛→自己愛→より高度な自己愛」という発達ラインを提唱しました。そしてその中で「治療者の側で、患者の自己愛態勢を対象愛に置き換えたいという願望をもちやすいのは、西欧文明の愛他主義的な価値体系の誤った押しつけによるものであって、発達上の成熟度や適応上の有用性を客観的に考慮したことによるものではない」と述べたのです。この辺りはフロムの考えと同じです。

 次に、コフートは『自己の修復』(1977)を出版し、その中で「愛の対象が同時に自己対象でないような成熟した愛は存在しない、ということに私は躊躇しない」と述べて、自己愛的でない対象愛は存在しない、と主張したのです。コフートのいう自己対象とは「自己の一部として体験される対象」のことです。自己愛的な人は、他人は自分の手足の一部のように動くものという錯覚の中で生きていますので、そうでないときに怒りが突出するのです。

 そして集大成となった『自己の治癒』(1984)の中でコフートは蒼古的な自己‐自己対象関係から成熟したものへというアイデアを提出するのです。「心理領域での依存(共生)から独立(自律)へと向かう動きは、生物的領域でのそれと対応的な、酸素に依存した生活から酸素に依存しない生活へと向かう動きと同様、望ましいというのはおろか可能ですらない。われわれの見解では、正常な心理生活を特徴づける発達は自己が自己対象を放棄するのではなく、自己と自己対象の関係の質の変化のなかに存在しなければならない」と述べたのです。人間にとって自己愛は酸素のようなもので生きていくのに欠かせない、と言っているのです。            

 コフートは最終的に「わたし」という主観的体験を重視するようになります。このコフート理論は後には「自己感 sense of self」の発達から間主観性理論へと発展していきます。

 ところで、皆さんはもうお気づきだと思いますが、コフートの「人間にとって自己愛は否定されるべきものではない」という主張は理解されたと思いますが、自己愛の負の側面への言及がありませんね。私たちは、自分を愛することは「自分だけ!」という利己的な態度に陥りやすい、と釈迦から教わったばかりです。コフートの考えの対極にあるのがカーンバーグKernbergという精神分析家の考えです。コフートが自己愛の正の部分を強調するのに対してカーンバーグは負の部分に力点を置きます。その討論はXの治療論で説明しましょう。


W.DSM−5の自己愛性パーソナリティ障碍

 精神科臨床ではその負の側面が現れる現象だと思います。アメリカ精神医学のDSMの自己愛性パーソナリティ障碍(以下、NPD)を見てみましょう。

定義:
NPDは、自分は優れた人間であって、他人は自分を称賛するために存在する、と考えている人たちのことです。他人の心の痛みが分からないし、周囲から注目されないと傷つき、怒りで反応します。人生の成功者にしばしば見られるのが誇大型。それとは逆に、誇大性を裏に隠し臆病で劣等感の強い、周囲の反応に過敏になっているのが敏感型です。前者を「皮の厚い」型、後者を「皮の薄い」型とも言います。

NPDの診断基準:
誇大性(空想または行動における)、称賛されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。

1)自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
2)限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3)自分が“特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人たち(または団体)だけが理解しうる、または関係があるべきだ、と信じている。
4)過剰な賛美を求める。
5)特権意識(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)
6)対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)
7)共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づかない。
8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9)尊大で傲慢な行動、または態度

 どうでしょう。何度も繰り返しますが、自己愛には正と負の両面があります。その負の側面のみをクローズアップするだけでは自己愛は悪だという西欧文化の考え方になるのではないでしょうか。「俺が、俺が」から「俺も俺だがお前もお前」への移行を臨床医が求めるのはコフートが指摘したように「西欧文明の愛他主義的な価値体系の誤った押しつけによるもの」になるのではないでしょうか。それよりも「俺が、俺が」という人物は社会的成功者、特に一代で築いた中小企業の社長さんに多いわけで、周りにいる人は毒気に当たって辛い思いもするけれども、自己対象が機能すると才能豊かな人たちでもあるのです。また、この診断基準からどんな治療戦略が生れるというのでしょうか。そろそろNPDは臨床診断から除外すべきだと思います。次回は、この問題を掘り下げて、私の負の自己愛に関する治療について述べようと思います。

 ※私はNPDの臨床診断は除外すべきだと思う

posted by Dr川谷 at 07:37| Comment(0) | 日記

2017年03月27日

臨床ダイアリー15:『鴎外のスプリッティング』

2017.03.27
臨床ダイアリー15:『鴎外のスプリッティング』

T.はじめに

 8年前の日本精神分析学会教育研修セミナーで森鴎外を題材に『Winnicottの本当の自己について』(Winnicottはイギリスの精神分析家)という発表を行ったことがあります。ずいぶん前のことなので埋もれたままになっていましたが、鴎外の生き方は21世紀を生きる私たちにとって考えるヒントを与えてくれそうな気がしますので、再度、ここで取り上げてみることにします。

 侍の子として生まれた鴎外が明治人として生きることは鴎外にとって心が二つに分裂する苦しみでした。鴎外はその狭間を生きる中で『舞姫』を産み、『阿部一族』を世に出したのです。この侍か近代自己かという二者択一の問題は21世紀になってもいたるところで噴出します。例えば、高校野球で球児が快打に塁上でガッツポーズするのは敗者の心を慮らない失礼な行為なのではないか。さらには、大相撲でモンゴル力士の振る舞いは「横綱の品格がない」という非難も、すべて鴎外の分裂した二つの心に源流があるのです。

 今回は鴎外を語ることで「自己のスプリッティング」について話を進めようと思います。まず森鴎外の4編の小説を題材に鴎外の二重生活の苦悩を追ってみたいと思います。

U.森鷗外の4編の小説

 鴎外は1862年2月17日に現島根県津和野町に、森家は代々津和野藩の藩医の家柄です、その長男として鴎外は生まれました。侍の子どもだったので、幼少の頃から論語や孟子やオランダ語を学びます。1872年、10歳で父親と一緒に上京。1873年、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)に入学し1881年に卒業。同年の12月に陸軍軍医として東京陸軍病院に勤務しました。1884年の8月にドイツ留学のために横浜港を出発した鴎外は、1ヵ月半後の10月にベルリンに到着します。この時、鴎外は22歳になっていました。1888年7月に帰国するまでの鴎外の心に起きた出来事はフィクションとして小説になります。

1.『妄想』(1911)49歳

 短編小説の形を借りた鷗外の自叙伝だと言われています。主人公はベルリン留学で「自我」という概念を知ります。当時の欧州では「自我」が無くなることが最大の苦でした。なぜ「自分」が無くなることが苦しみだったかというと、死ぬことを意味したからです。当時のベルリンの知識人にとっては死ぬことは最大の恐怖だったのです。ところが、侍の子として生まれた鷗外にとって、幼い頃より侍は命を主君に預けるように育てられるので、自分が無くなるということに恐怖をもつことはすでに解決済みの問題であったのだと思います。『葉隠』にある「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という一節は広く知れ渡っていますね。侍にとって主君への絶対的な忠誠心と死の覚悟が生きる意味なのです。

 ところが、ベルリンの地では主君よりも「自分」だったのです。それで小説は「自分」という一人称で書かれます。ベルリンの地で自我=「まことの我」という概念を知って、それとは対照的な現在の自分を偽物と感じるようになったのです。

「生まれてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに策うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷齪してゐる」「自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる」「背後に或る物が真の生ではあるまいかと思はれる」

と、意識される「我」の他に「真の我」という存在に直面するのです。

2.『舞姫』(1890)28歳

 この二つの「我」は処女作『舞姫』にも取り上げられ、「我ならぬ我」と「まことの我」という自己の分裂スプリッティンとして描写されます。

「所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の内なにとなく妥ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり」。

 ベルリンで過ごした22歳から26歳の間の苦悩について鴎外は語っています。侍として教育された「我」の他に「真の我」がいたことは鴎外にとって精神的危機でもあり生きなおしの機会でもあったのでしょう。鴎外はこの自己のスプリッティングを生涯の問題として抱えていくことになります。

 主人公は勉学に夢中になれずに恋人エリスに心を奪われていきます。2人は帰国という形で強制的に別れることになるのですが、主人公はその運命に逆らうというより責任を放棄した形で解決するのです。この時、鴎外は「まことの我」を貫けずに「我ならぬ我」に運命を預けたのです。

3.『ヰタ・セクスアリス』(1909)47歳

 私は高校生の頃に受験勉強の暗記ためにこの小説の存在を知りました。手にして読んだのは大学に入ってからのことです。読んでちょっと物足りなかったことを覚えています。

 「まことの我」に気づいた鴎外は、それを性生活の領域にも広げていきます。鴎外は性欲の虎を放し飼いにしてその背に乗る人が自然なのであって、性欲の虎を馴らして抑えておくのは不自然だと言います。性欲という虎を放し飼いにしつつ性欲に溺れないことを上位に置いています。鴎外は国費でベルリンに留学しています。性欲に振り回されて勉学をおろそかにすることは、国を裏切ることになります。しかし性欲を抑圧するために修練するのは不自然だと切り捨てます。思春期の若者の性欲を抑圧するために、武道によって修練するのは広く行われていることなのですが、鴎外はもっとスマートな方法があるのではないかと言っているようにも聞こえます。

4.『かのやうに』(1914)52歳

 そして52歳のときに『かのやうに』を出版します。ファイヒンガーの“Die Philosophie des Als Ob”(かのようにの哲学)をテキストにして鷗外の思想を語ったものです。少しばかり、気になる個所を引用しましょう。

「点と線があるかのやうに考えなくては幾何学はなりたたない。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。そのないものをあるかのやうに考えなくては、倫理は成り立たない」
「人間の智識、学問はさておき、宗教でもなんでも、その根本を調べてみると、事実として証拠立てられないある物を建立している。すなわちかのやうにが土台に横たわっているのだね」
「かのやうにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値あるものは、かのやうにを中心にしている」
「かのやうに」を否定すると「危険思想」だと云われて、それでは到底生きていけない。八方塞がりだと苦悩する。  

 主人公は留学から帰っても一向に働こうとしない、当時の引きこもり青年、「高等遊民」として登場します。働かないのは留学費を出してくれた父親への裏切りです。しかし働くのは「我ならぬ我」なので、鴎外は主人公に「かのやうに」が怖いと告白させるのです。鴎外は主人公に「我ならぬ我」より「まことの我」を殺すのが忍びないと言わせるのです。「まことの我」を殺すくらいなら「高等遊民」の方にまだ価値がある、とさえ言い切るのです。

5.まとめ

 鴎外の苦悩は永遠に解けない二者択一問題です。ベルリン留学では勉学か恋愛か、帰国後は医師(高級官僚)か小説家(三文小説家)か、です。江戸っ子の漱石、漱石はロンドンに留学し帝国大学の教授職を捨てて三文小説家に下った、のように割り切れない鴎外は二足の草鞋を履き続けます。その苦悩は26歳でベルリンから帰って来てから『阿部一族』(1913)を書き上げるまで続くのです。そして、苦悩から解き放された鷗外は『かのやうに』(1914)を書き上げるのです。

 鴎外は「我ならぬ我」の背後に「まことの我」の存在を明らかにしました。25歳の頃のことです。当時は、2人の自分を抱えながら、つまり医師でもあり作家でもある、という二足の草鞋を履いたまま生きていきます。50歳を超えて、ようやく鴎外は2人の自分に決着をつけるのです。裏切り、危険思想だと言われても「まことの我」の方が自分にとって大切なのだと。それを箇条書きに述べると、以下のようになります。

 1.自己分裂を自分の悩みとして抱える覚悟をする
 2.とにかく明治・大正を生きる
   二束の草鞋的生活を続け「かのやうに」を生きる。         
   しかし、それには満足しない。
 3.小説を書く、そして小説の中で生き直す。
 4.辿り着いた地点は
   人間叙述小説を書くことだった。

 こうして見ると、鴎外の一生は、私たちに生きるヒントをあちこちに散りばめているような気がします。歴史小説と言われる鴎外の作品群は「まことの我」の生き様を描いています。  

V.野球はスポーツか武道か

 高校野球児のガッツポーズがなぜいけないのか。モンゴル力士の振る舞いが「横綱としての品格がない」となぜ非難されるのか。単純に負けた相手のことを思い遣るべきではないのか、という批判だけではないようです。勝負事には勝ち人と負け人が出るわけですから、競技・スポーツの世界では「勝利を素直に喜ぶ」ことは自然な流れなのです。しかし、それは野球と大相撲が競技やスポーツであれば許せることなのです。それが「武道」と解釈されると非難されることになるのです。

 武道とスポーツは何が違うのか。武道の精神に「残心」という言葉があります。戦国時代を生き抜いた武士は、江戸時代に入って、人殺しをせずに国を統治するようになりました。人を殺さない武士の多くは武道(剣道)の中に侍として生きる道を見出しました。戦国時代は、敵を殺し、生きて帰るのが武士の生き方です。武士としての名誉を重んじ、臆病・卑怯・裏切りを戒めるのは江戸に入ってからのことです。残心とは、敵を倒したときに油断せずに注意を払っている様子のことを表します。ひょっとしたら敵は重症を負っているかもしれないが、相手を一太刀にする気力だけは残っているかもしれないからです。油断するな、という教えが残心の意味なのです。だから、ヒットを打ってガッツポーズをするのは武道の教えに反する行為なのです。相手のことを慮るという意味は戦後の平和ボケが生んだ解釈なのです。

 だから、スポーツを仕事とするメジャーで活躍する日本選手の多くが侍ジャパン参加を断り、国を背負う純粋侍ジャパンとビジネススポーツ選手という分裂が起きるのです。何か釈然としない問題を私たちに突き付けているような気がしないでもありません。このように武道かスポーツかという二者択一のスプリッティングに行き着くのです。スポーツならガッツポーズは許されます。モンゴル力士の勝ち名乗りも勇ましいと称賛されるのですが、武道となるとそうは問屋が卸しません。この問題はなかなか侮れないので、森鴎外を題材に議論するのは価値あることではないかと思うのです。

posted by Dr川谷 at 11:46| Comment(0) | 日記